53.ミズハの正体
それは、忽然と現れた。
誰もが目を丸くし、ぽかんとした顔になる。ナズナとて例外ではない。何の気配も感じず、まばたきしたらそこにいたのだから。
「な……」
自分の腕がそれにつかまれているのに気づき、セシルは慌てて振り返った。
「て、てめえ……ナズナの、女執事……」
「ふふ。先ほどからキャラが崩れてますよ、チート転生者くん」
驚愕するセシルに、ミズハはにこりと笑った。
直後。
ドゴォン、という轟音と共に、ミズハに蹴り飛ばされたセシルが、即死してもおかしくない勢いで壁に叩きつけられた。
だが、セシルは無事だった。
そんなバカな、と誰もが思ったが、ミズハは「ふむ」と軽く肩をすくめただけだった。
「世界の加護。頑丈なものです」
「くっ……」
「ですが、無傷というわけでもなさそうですね」
脳震盪でも起こしているのか、立ち上がろうとしたセシルがふらふらと膝をついた。
「まあ、弟子と話をする間、ちょっと休んでいてください」
コツコツと足音を響かせ、ミズハがナズナの前に立った。
「お……お師匠様」
「おやおや、そんな泣きそうな顔をして。しっかりなさい。手順は間違っていませんよ」
ミズハの優しい叱咤に、ナズナはうなずいた。
たったそれだけのことで気持ちが落ち着いた。冷静になり、思考が冴え、やるべきことが見えてくる。
「そう、それで正解です。魔女たるもの、たとえ愛する人の死に直面しても、冷静さを失ってはなりません」
「はい……お師匠様」
「そして、こんな状況でなんですが」
ミズハは手袋を外すと、ナズナに小さな拍手を送った。
「卒業試験は合格です。おめでとう、愛しい子よ。世界改編の大魔法を破り、恋人の危機にもきちんと対処できましたね」
――ありがとうございます、と言うべきかしら。
ナズナはちらりとそう思ったが、さすがにそんな気分にはなれなかった。
「……お師匠様、時と場と状況をわきまえていただけませんか?」
「ふふ、憎まれ口を叩くぐらいの余裕は出て来ましたね。結構、結構」
ミズハが笑いながら手をかざすと、ナズナとシヴァンシカを包む光が生まれた。
暖かい光だった。
その光に包まれて、セシルとの戦いで消耗した魔力が回復していくのを感じた。
「治療に専念なさい。あとは私が引き受けましょう」
ザアッ、と嫌な耳鳴りがした。
ナズナが顔をしかめ、セシルが叩きつけられた壁の方を見ると、万年筆を手に立ち上がろうとしているセシルが見えた。
「ふふ、そうこなくては。あれで終わりでは、わざわざ来た意味がありません。ですが……」
パチリ、とミズハが指を鳴らす。
それだけで、耳鳴りが消えた。
「なっ!?」
セシルが愕然とした顔になる。
「お、俺の世界改編が……消えた?」
「悠長に世界改編なんてしていて、よろしいのですか?」
ふわっ、とミズハの体が揺れ。
一瞬後には、セシルの真横に立っていた。
「なっ……」
「その魔法の欠点は、つじつま合わせが大変なこと。今ここへつなげられ、かつ、己に有利な世界を選ぶのは、なかなかに難しい」
「くっそぉ!」
「だからこうして、前線で戦うのには向いておりません」
文字通り、目にも見えぬ速さで繰り出されたミズハの攻撃が、四方八方からセシルに襲いかかった。
だが、ミズハの攻撃はギリギリのところで防がれた。
「ふむ、世界の加護。やはりこれは面倒ですね」
「どうだ、どうだ! これこそ俺が神である証拠! できる執事だかなんだか知らねえが、神である俺に勝てるわけはないんだよ!」
「おっと、そうでした」
世界の加護に守られ、傷ひとつついていないセシル。
しかしミズハに動揺の色はない。攻撃の手を一度止め、セシルから距離を取ると静かに胸に手を当てた。
「うっかりしておりました、自己紹介がまだでしたね」
「は? 自己紹介?」
「ギムレット家ご令嬢、ナズナ様にお仕えする女執事のミズハ。これは仮の姿でして」
「なに……?」
「ふふ、先ほどナズナ様が言っていたではないですか。お師匠様、とね」
つい、とミズハが指先を回すと、どこからともなくミズハの手に杖が現れた。
「僭越ながら、ナズナ様の師匠も務めさせていただいております、魔女のミズハです」
「魔女……てめえが?」
「ええそうです。これでも一応、業界では有名人なんですよ」
「はんっ、なんだよ業界、て」
「実は私にも」
ミズハがちらりとナズナを見た。
「ナズナ様の『漆黒の魔女』ような、二つ名がございまして。そちらはおそらく聞かれたことがあると思いますよ」
そういえば、とナズナは首をかしげる。師匠の二つ名を聞いたことがない。
「なかなかに大仰な二つ名でしてね。おこがましいのであまり名乗っていないのですが。まあ、神を名乗るあなたになら、名乗ってもいいでしょう」
「けっ、興味ねえよ」
「おやそうですか? きっと興味を持っていただけると思うのですが」
万年筆を構えるセシルに、ミズハが優雅に一礼する。
「私の二つ名は、魔女の王、でございます」
「あん? 王?」
「ええそうです。そしてその二つ名を知る者には、たいていこう呼ばれます」
ミズハが体を起こし、笑みを浮かべた。
その、ぞっとするような笑みに、弟子であるナズナまでもが凍りついた。
「魔女の王。略して『魔王』とね」