38.予兆
シヴァンシカが乗った馬車が見えなくなると、ナズナは小さく息をつき、ほんのわずかにうつむいた。
「泣いてもいいのですよ、ナズナ様」
「泣きません」
ミズハの言葉に、ムッとした顔で振り向いたナズナ。そんなナズナを、ミズハは優しい目で見つめた。
「やれやれ。私の愛しい子は、意地っ張りですね」
「……意地悪なお師匠様に鍛えられましたので」
「おや、そうでしたっけ?」
「だけどそのこと、今ではとても感謝していますわ」
ナズナはうるんだ瞳で笑顔を浮かべ、ふわり、とミズハに抱き着いた。
「強くなれたもの。泣き寝入りなんかしない。奪われたのなら奪い返してやる、そんな力を手に入れられたもの」
「なかなかに物騒な物言いですねえ」
「ええ、お師匠様のご指導の賜物ですわ」
困った弟子ですね、と楽しそうに笑いながら、ミズハはナズナの頭を優しく撫でた。
「それに、泣く必要なんてないわ……シヴァは必ず取り返すのだから」
「レクス教徒を敵に回しますよ?」
「魔女らしいでしょ?」
弟子の言葉にミズハは笑う。まさにナズナの言う通り。魔女は、教えをおとしめ聖女誘惑して堕落させる、レクス教徒にとっては不倶戴天の仇敵だ。
「まあ、その件はおいおい話しましょう」
ミズハは抱き着いているナズナを優しく引き離すと、うるんだ瞳をハンカチで拭ってやった。
「さあ、ナズナ様も急ぎませんと。卒業生代表として挨拶される方が遅刻というのは、いただけませんよ」
「そうね」
ナズナはうなずくと、気持ちを切り替え屋敷へ入ろうと歩き出した。
その時――ナズナの頭の中で、ザザザッ、と耳障りな音が響いた。
「……っつ」
「どうしました?」
「今、何か変な音が……」
音は一瞬で消えた。何の音だったのだろうと気にはなったが、周囲を見ても変わった様子はない。
「……何だったのかしら?」
首を傾げつつ、まあいいかとナズナは屋敷へ入っていった。
「ふふ」
そんなナズナの後ろ姿を見ながら、ミズハはかすかに笑う。
「我が弟子を出し抜くとは、やりますね」
ミズハは、パチリ、と指を鳴らした。
途端に、うっすらと屋敷を覆っていた力が霧散していく。仕込みか、牽制か、あるいは両方か。いずれにせよナズナは先制されてしまったようだ。
「さて、私の愛しい子は、無事に切り抜けられますかね」
これを私からの卒業試験ということにしましょうか。
ミズハは独り言ちると、主たるナズナの後を急ぎ足で追った。
◇ ◇ ◇
卒業式というハレの日だ、多くの卒業生は華やかな衣装に身を包み、学園はいつもと違う雰囲気に包まれていた。
そんな華やかな雰囲気の中、白一色で飾り気のない法衣姿は、かえって目立っているようだった。
「これ、悪目立ちよねえ」
ケープでも羽織ってくればよかったかなと思ったが、これが聖女としての正装だ、女官たちは許してくれなかっただろう。杖と守刀を馬車に置いていくことにすら反対された。武器の類として持ち込み禁止だからと説得し、ようやく置いていくことを認めさせたが、着る物ひとつでこれでは、国へ帰ってからのことを思うとげんなりした。
「早く味方になってくれる人を見つけないとね」
ずっと守ってくれていたナズナはもういない。それを思うと寂しくなるが、めそめそしてはいられなかった。
卒業式の会場である講堂に到着すると、シヴァンシカは後ろから三列目、壁際の席に腰を下ろした。
本当はもっと前に座り、卒業生代表として挨拶するナズナの姿を見たかった。だが、二度も留年した自分が堂々と前の方へ座るというのはさすがに気が引けた。ただでさえ聖女の正装で悪目立ちしているのだ、後ろの隅で目立たないようにするのが得策だろう。
卒業生が集まり始め、徐々に席が埋まっていった。
「シヴァンシカ様」
席の八割がたが埋まったころ、シヴァンシカに声を掛けてきたのはリンダだった。
リンダは、濃紺のパンツスタイルのスーツだった。ううむさすが、とその大人っぽい装いにシヴァンシカは唸ってしまう。まさに「デキる女」という感じだ。
「隣、よろしくて?」
「ええ、どうぞ」
隣の席にリンダが座ってくれて、シヴァンシカはほっとした。在学中に他の学生との交流を怠っていたツケか、シヴァンシカの周囲はぽっかりと空席ができていたのだ。
「ご卒業、おめでとうございます」
「ありがとう。リンダ様も、おめでとうございます」
「ふふ、嬉しいような、残念なような。退学になる聖女様を見ることは叶いませんでしたね」
「……お祝いの言葉が身に沁みますわ」
まったくもう、と頬を膨らませたシヴァンシカだが。
すぐにリンダと二人して、肩を揺らして笑った。
「こんな後ろでは、ナズナ様のハレ姿が見られないのでは?」
「二度も留年した人が、前の席に座れるとお思いで?」
「あー、それはなかなか度胸がいりますね」
「リンダ様こそ、どうしてこんな後ろに?」
「張り合ったライバルが卒業生代表として壇上に上がるのを、間近で見ろと?」
「なるほど、悔しくてたまらないんですね」
そんな軽口をたたき合っていると、講堂の入口付近にざわめきが起こった。
ナズナだった。
「漆黒の魔女」と呼ばれるナズナが、澄んだ青色のドレスに身を包んでいる。そのことに驚きの声が上がると同時に、ナズナの可愛らしさに感嘆の声があがっていた。
「あらまあ! 今日のナズナ様、とてもお可愛らしいですわ」
「でしょ?」
シヴァンシカとリンダが並んで座っているのを見て、ナズナは微笑みつつも、ちょっとだけむくれた顔となった。卒業生代表として挨拶をするナズナは、最前列中央に席が指定されている。シヴァンシカたちと並んで座ることはできないのだ。
(次に会えるのは……いつだろう)
最前列へ向かうナズナの背中を見ながら、シヴァンシカは目頭が熱くなる。
(あるよね。きっと次はあるよね)
いずれのルートでも卒業式は「エンディングイベント」で、すべての決着がついている。ここから先に分岐するルートはなく、お話はここで終わる。
だとしたら、このまま行けるはず。
ナズナもシヴァンシカも破滅せずに生きていける、ここはそんな世界であるはず。
「……っつ」
不意に、リンダが顔をしかめ耳を気にする様子を見せた。
「リンダ様? どうしました?」
「ああ、いえ、ちょっと……朝から変な耳鳴りがしてまして……」
「耳鳴り、ですか?」
「バタバタしていたから疲れているのかもしれませんね。いえ、もう治まりましたわ」
「耳鳴り……」
ふと、引っかかる何かを覚えた。
「リンダ様、その耳鳴りって……」
リンダに問おうとシヴァンシカが口を開きかけた時、講堂の明かりが落とされ、学長が壇上に姿を見せた。同時に教師たちも後ろの扉から入ってきて、壁際にずらりと並んでいく。
「なんですか、シヴァンシカ様?」
「あ、いえ……何でもないわ……」
何度も追試でお世話になった教師がすぐ隣に立つのが見え、シヴァンシカは慌てて口を閉じた。最後の最後、卒業式でまで注意されたとあっては、聖女として末代までの恥である。
(ま、いいか)
シヴァンシカは軽く頭を振って気持ちを切り替え、正面を向いて姿勢を正した。
――ちゃんとやろうか、『断罪』イベントを。
謎の少年にそう告げられたことを忘れたわけではない。だが、ナズナとの甘い時間に溺れる中で、シヴァンシカの警戒心は緩んでいた。
もしもここで変だと気づいて、ナズナに相談していたら。
結末は、もう少しマシなものになっていたかもしれない。