37.別れの朝
銀糸で縁取りされている白い法衣に、髪を縛る銀色の紐、小ぶりな杖、そして守刀の短剣。それが聖女の正装で身につけるすべてだった。
極めてシンプルなデザインで、装飾性はゼロ。だがどこまでも清らかな美しさを誇るシヴァンシカが身につけると、どんな着飾ったドレスよりも美しい姿となった。
「まあ、法衣を脱いだらキスマークというのが、なかなかに淫靡ですが」
「……言わないで」
ミズハの言葉に、シヴァンシカは顔を赤らめた。
お茶会が開かれた日の夜、シヴァンシカはとうとうナズナと一線を超えてしまった。
思い出すだけで体が火照る。聖職者としてあるまじき行為なのは確か。だが、ナズナと愛し合ったことを後悔はしなかった。
「消えるまで、一人で入浴されますように。聖女としては醜聞ですからね」
「……そうする」
支度を終え、シヴァンシカは食堂へと向かった。
食堂では先に支度を終えたナズナがお茶を飲みながら待っていた。
「お待たせ、ナズナ。わ、かわいい!」
ナズナが着ていたのは、澄んだ青色のドレスだった。「漆黒の魔女」と呼ばれ、黒い服を着ることが多いナズナだが、明るい色の服が嫌いなわけではない。
むしろ、かわいらしい外見と相待って、そちらの方がよく似合う。
それに、この色。
「初めて会った時に着ていたドレスの色ね」
「……覚えていてくれたんだ」
「もちろん。ナズナのことだもの」
シヴァンシカの言葉に、ナズナがほおを染めて笑顔を浮かべた。
「シヴァも、同じね」
「そうだっけ?」
「ええ。私、あなたの姿を見て思ったもの。神様に嫁ぐための花嫁衣装みたい、て」
ナズナは立ち上がると、シヴァンシカのほおにそっと手を当てた。
「でも、もうそんな風には思わない。シヴァは、私のものよ」
ナズナが爪先立ちになり、軽く唇を重ねた。
たったそれだけのことで、シヴァンシカは身も心もとろけそうになる。抱きついてきたナズナをしっかりと抱き締めて、その温もりを忘れないようにと心と体に刻み込んだ。
「必ず、あなたを取り返しに行くわ」
「……国際問題になるよ?」
「どうでもいいわ。私には、シヴァが全てだもの」
屋敷の外が騒がしくなった。どうやらシヴァンシカの迎えが来たらしい。
二人はもう一度だけキスをすると、手を繋いで玄関へと向かった。
「あら」
玄関では、ミズハが白バラの大きな花束を手に待っていた。
「ご卒業、おめでとうございます」
「ありがとう。すごいわね」
「お向かいのマーガレット嬢に用立てていただきました」
花束にはメッセージカードが添えられていた。マーガレットが書いたのだろう、かわいらしい文字で「ご卒業おめでとうございます」と書かれていた。
「さて、お覚悟はよろしいですか? ここを一歩出たら、あなたはもう聖女様。お戻りになることはできません」
「ええ」
隣に立つナズナを一瞥し笑みを浮かべると、シヴァンシカは玄関を出た。
ただの留学生から、「白銀の聖女」シヴァンシカへ。
見送りに立つナズナとミズハから離れ、迎えに来た導師と女官のところへと進んで行く。
「お美しいバラですね」
お預かりします、と女官の一人が手を差し出した。彼女に花束を預け、シヴァンシカは導師の一人とともに迎えの馬車に乗り込んだ。
馬車の窓から、見送るナズナとミズハの姿を見る。そして、七年を過ごしたお屋敷を。
寂しく思ったが、もう泣きはしない。涙は、昨夜ナズナの胸の中でさんざん流してきた。祝いの門出に涙は禁物だ。
「あれが『漆黒の魔女』ですか」
正面に座る導師クリシュナが、ナズナを見て固い声を出す。レクスの教義において、魔女は教えをおとしめ聖職者をたぶらかす悪の存在。その声に険しさが宿るのは致し方ないだろう。
「魔女ではなく、ギムレット家のご令嬢、ナズナ様です。七年間、大変よくしてくれたのですよ」
「そうでしたな。聖女様が無事ご卒業できたのも、あの方のおかげでしたな」
うぐ、と絶句したシヴァンシカを見て、クリシュナは嫌な笑みを浮かべる。
「しかし聖女様が留年されたのも、あの方が一因では?」
「それは私の努力不足です。何度も言いましたよ」
困った人だ、とシヴァンシカは嘆息する。優秀な道師だが、教条的で原理原則を重んじがち。シヴァンシカとしては苦手なタイプだ。
「それで」
話を切り替えるべく、シヴァンシカはクリシュナに向き直る。
「わざわざあなたが乗り込んだということは、何かお話があるのかしら?」
「そうでした。本日の予定が一部変更になりました」
卒業式を終えたのち、首相官邸および議会へ表敬訪問を行い、そのまま共和国を発つ。それが今日の予定のはずだった。
「首相官邸訪問は取りやめ、議会へ向かいます。その後、大使館にて各国大使との交歓会となりました。首相もそちらにいらっしゃいます」
「ずいぶん急ですね」
「各国大使より、聖女のご卒業をお祝いしたいとの申し入れが殺到しまして。苦肉の策です」
一度国に帰れば、聖女が国外に出ることは滅多にない。各国としても最後のチャンスを逃すわけにはいかないのだろうと、クリシュナは肩をすくめた。
「おかげで、準備にてんてこ舞いです」
「それでアラディブ導師ではなく、あなたが来たのね」
「……ええ、そういうことです」
「わかったわ。新米聖女ですからね、皆様にお任せします」
初日からバタバタとしそうだなあと、シヴァンシカはため息をついた。
だが、やるしかない。それが自分に課せられた役割なのだから。
「では、出発します」
準備を終え、馬車が走り出した。
ナズナとミズハが同時に頭を下げる。そんな二人の姿に涙をこらえながら、シヴァンシカは七年を過ごした屋敷を後にした。