36.間違い(ギルティ)
七年前のあの日。
木漏れ日の中にたたずむ彼女を見た瞬間、私は金縛りになった。
どこまでも透き通った、汚れひとつない美しさに一目で心を奪われた。
「きれい……」
これが聖女。
神様に愛された女の子。
その美しさは畏怖すら抱かせた。
みんなが私を美しいと讃えてくれる。だけど、私の美しさなんて表面だけの偽物だと思い知った。
気がついたらひざまずいていた。
本物の美しさの前では、私はただの引き立て役。真の美を目にして、己の浅はかさを悔い、涙を流して神様に謝罪した。
二度と自分の美しさを誇りません。
どうか神様、この罪深き私にお許しを。
だから、あと少しだけ。
あと少しでいいから、真の美を愛でるお許しを。
「あなた……ひょっとして」
私に気づいた彼女が目を見張る。
叱られるのだろうか、追い払われるのだろうか。
恐怖を覚えつつも身動きできず、彼女の美しい顔を正面から見ることができた喜びに酔いしれた。
彼女は無言のまま、私をしばらく見つめ。
とろり、と崩れるように笑った。
「あ……ああ……」
どこまでも清らかな美しさの中に生まれた、その笑顔の淫靡さ。
感極まって、私は涙を流した。
魂がその美しさに虜となった。
「うそみたい……もう会えた」
美しい声で彼女がつぶやく。彼女がゆっくりと近づいてきて、柔らかな指先が私の涙を拭う。
「ナズナ、ね?」
彼女の問いに、私はうなずいた。どうして私の名を知っているのかという疑問は、私の名を呼んでくれた喜びにかき消された。
「かわいらしい服。とても似合ってるわ」
とんでもない、と私は首を振った。
十三歳の誕生日のプレゼントとして、父に贈られた澄んだ青色のドレス。彼女が身につける法衣を目にするまでは世界一だと思っていたドレスだけど、今はとても恥ずかしい。
「でも、あなたにはもっとふさわしい色があるのよ」
彼女がしゃがんだ。ほんの数センチ前に、彼女の美しい顔。まさに至福の時だった。
「あなたに似合うのは黒。何物にも染まらない、あなたのための色よ」
「く……ろ?」
「そうよナズナ。だってあなたは、漆黒の魔女だもの」
魔女? 私が魔女? どういうこと? どうして私が魔女?
唐突な言葉に私は混乱した。だけど、彼女がそうであれというのなら、それでいいと思った。
「会いたかった。あなたに会いたかった。あなたに会いたくて、必死でがんばったのよ」
「わたし……に?」
「そうよ。ナズナ……愛してるわ」
その言葉が、私の心を粉々にした。
粉々になった心に代わり、彼女への愛が私を満たした。
無常の喜び、歓喜の瞬間。これまでに一度も感じたことがなく、今後二度と感じられない、真の幸せに涙がこぼれた。
「幸せ……もう……もう死んでもいい……」
「だめよ。死なせるものですか。あなたを死なせてなるものですか」
彼女の両手が私のほおを包む。柔らかな手の感触。彼女の潤んだ瞳が私をとらえ、私は静かに目を閉じた。
彼女の唇が、私の唇に重ねられた。
軽く、ついばむような短いキス。それから、強く、慈しむような長いキス。
「愛しているわ、ナズナ」
「私も……です……」
ようやくそれだけを言い、私は倒れこむように彼女に抱きついた。
彼女の名は、シヴァンシカ。
「白銀の聖女」と呼ばれている、異国から来た同い年の少女だった。
※ ※ ※
あの日から、ずっと彼女を愛していた。
神様に愛された女の子。
人の手で汚すことのできぬ、唯一無二の存在。
魔女である自分が聖女を汚すわけにはいかないと、ずっと我慢していた。だけど神様が彼女を守らないというのなら、我慢なんてするつもりはなかった。
「シヴァはもう……私のものよ」
ナズナの腕の中で、落ち着いた寝息を立てているシヴァンシカ。情欲のままに肌を重ね吐息を交らわせたときとはまるで違う、無垢な寝顔に母性のようなものを感じてしまう。
「ふふ。シヴァの寝顔って、こんなにかわいいのね」
ナズナは静かに体を起こし、シヴァンシカの額に手をかざした。深い眠りに落ちているとわかっているが、念のためだ。
「静かなる闇の眠り……深く、深く、眠りの泉の底に……」
ナズナの魔法がシヴァンシカの体を包む。さらに深い眠りに落ちたシヴァンシカの額にキスをして、ナズナはそっとベッドを降りた。
「明け方は、もう冷えるわね」
ナズナは素肌の上にショールをかけると、シヴァンシカの机に向かった。
机の引き出しの一番上、鍵付きの引き出し。そこに手をかけ、鍵がかかっていることを確認する。
ナズナは眠っているシヴァンシカをちらりと見てから、引き出しの鍵に手をかざした。
さしたる抵抗もなく、カチリ、と音を立てて鍵が開いた。
拍子抜けするほどあっさりと成功し、逆に警戒してしまった。
シヴァンシカは眠っている。それをもう一度だけ確認し、ナズナは引き出しを開けて古いノートを取り出した。
「閨房……戦記3?」
最初のページに書かれた文字に、ナズナは眉を顰める。無秩序に書かれた単語の羅列が続く。しかし途中のページで一文にまとめられ、それを一読してナズナは目を見開いた。
「なに、これ……」
ナズナの中の『誰か』が声を上げ始めた。それを力づくで抑え込み、ナズナは猛スピードでノートに書かれた内容を読み進めていく。
驚くほど正確に、この世界の情勢が書かれている。
十三歳の時から七年間ラベーヌス共和国で過ごし、社交を避け、友人づきあいも最低限のシヴァンシカ。そんな彼女が知っているはずのない情報がいくつも書かれていた。
(私に気づかれないよう、レクス国の情報網を使って世界の情報を集めていた?)
ありえない、とナズナは首を振る。たとえナズナを出し抜けたとしても、ミズハの監視を潜り抜けられるはずがない。普通の方法で集めた情報ではない。それこそ魔法か、それに類する力を使ったとしか思えない。
だが読み進めていくうちに、違和感を感じ始めた。
世界情勢に関する情報というよりは、なにかこう、創作的なもののように思えてきた。
いうなれば、物語の設定情報。あらすじに登場人物、その設定といくつかの選択肢――そんなものが書き連ねられた、まるで小説か何かの情報。
いったいこれをどう理解すればいいのか。
困惑しつつページをめくり、そこに走り書きされた一文を見て、ナズナはハッとなった。
「どういう……こと?」
ナズナは思わずシヴァンシカを見つめた。
『ナズナは死なせない。そのためなら、私が破滅する』
ぐっすりと、幸せそうに眠っているシヴァンシカ。そのシヴァンシカが書いた一文。これがシヴァンシカが共和国を留学先に選び、ナズナと出会った理由だというのか。
「いいわ……」
混乱する気持ちの中、ナズナは自分の中で喚き続ける『誰か』に語り掛けた。
「出てきなさい。そして、何が起こっているのか説明して」
ピシリ、とナズナの記憶にかけられた封印にヒビが入った。ナズナが外側から押してやると、封印はあっけなく壊れ、中に閉じ込められていた『誰か』が噴き出してきた。
人一人の人生、その膨大な情報が押し寄せてくる。
魔女の修業をしていなかったら、その奔流に飲み込まれ、自我すら危うかったかもしれない。
だがナズナは魔女だ。知識を司り、知恵でこの世を導く者。この程度の情報の奔流をさばくなど、たやすいことだった。
「そう……そうなの……そういうことだったの」
『誰か』のもたらす情報を処理し終えて、ナズナは肩を震わせた。
震える手で残りのページをめくり、すべてを読み終えてノートを閉じた。顔を上げ、こぼれそうな涙を懸命にこらえたが、ポロリと流れ床に落ちた。
「ひどいわ、シヴァ。そんなの……だめよ」
ナズナはノートを引き出しに戻し、魔法で鍵をかけ直した。
踵を返し、ベッドへ戻ろうとして、シヴァンシカが描いた絵の前で立ち止まる。
「これが、あなたがたどり着いた答えなの?」
シヴァンシカのありったけの想いが込められた、ナズナの肖像画。その片隅に書かれた小さなサインを指でなぞり、ナズナは『誰か』に成り代わり悲しげにつぶやく。
「だったら教えてあげる。これは……間違いよ、ひまり」
考えていたのとは違っていた。
だがこれは、違う意味で裏切りだとナズナは肩を震わせた。
「私はここにいるの。ここにいるのよ、シヴァ」
第8章 おわり