28.『誰か』
信じた人に裏切られ、愛した人に捨てられて、私は自ら命を断つ。
ナズナは物心ついた時からそう感じていた。
いや、知っていた、という方が正しい。
大勢の人が見守る中、涙を流しながら短剣を胸に突き立てる、そんな光景を何度も夢に見た。
その夢は、シヴァンシカ出会って以降、頻繁に見るようになった。ぼんやりとしていた人の影が、回を重ねるたびにはっきりとしていった。
もう少しで顔がわかるようになる――そんなときに魔法の才に目覚めた。
「お前の中に、誰かいるね」
ナズナが初めて「師」としてミズハに会った時、ミズハにそう言われた。
「お前が今後歩むであろう人生の、大半を知っているようだ。黙って見ているだけならよいが、どうも色々と口を出したそうだ。あまりいいことではないね」
そう言って師匠は、ナズナの中にいる『誰か』を封じた。
「未来を知っていても、いいことはない。愛しい子よ、己の力で人生を歩みなさい。そのために私が師になるのだから」
ナズナは学んだ。必死で学んだ。
いつか誰かに裏切られ、捨てられる、その恐怖に打ち勝ち、己を欺く者をねじ伏せるために。
だけど、もしもそれがシヴァだったら?
そう考えるだけで、身も心も震える。
初めて会ったその日に、愛していると言ってくれたシヴァンシカ。ナズナもまた出会った瞬間、恋に落ちた。あまりにも衝撃的な出会いで、一瞬で全てを持って行かれてしまったから、シヴァンシカを疑うことは恐怖でしかなかった。
「違う……絶対に違う」
確信を得たくて目を閉じる。幼い頃に見た夢を思い出す。
――ぼやけた夢の中、短剣を胸に刺すナズナを見ている人がいる。
ナズナが、信じた人と愛した人。
その二人が見ている前で、ナズナは張り裂けそうな悲しみと絶望の中、短剣を胸に刺す。
その二人のうち、一人は女性ではなかったか。それはそれは美しい、どこまでも清らかな女性ではなかったか――。
「違う、違う!」
耐え切れず、ナズナは目を開いた。
「シヴァじゃない、あれはシヴァじゃない!」
怖くて確認できない。あと半月でお別れ、その時まで信じて愛し続けたい。
「そうよ。このまま卒業してお別れできれば……あれはただの夢なのよ」
シヴァンシカの部屋の前に立ち、ナズナはにじむ涙をぬぐった。
今は何も疑われたくない。
いつもの通り、愛するシヴァンシカの前では笑顔でいたい。ナズナは胸に手を当て、何度も深呼吸をして気持ちを落ち着けると、部屋の扉を優しく叩いた。
「シヴァ、入るわよ?」
少し声を張り上げて気持ちを落ち着ける。大丈夫、今は大丈夫、と自分に言い聞かせ、シヴァの返事を待った。
「シヴァ?」
だが、いつまで待っても返事がない。ひょっとして寝ているのだろうかと、ナズナは静かに扉を開いた。
窓の外に、夕焼けに染まる街が見える。部屋の中は薄暗く、シヴァンシカの気配がしない。トイレにでも行っているのだろうか、と首を傾げて数歩部屋に入ったところで、ナズナは立ち止まった。
「……シヴァ?」
ナズナは息を呑んだ。
シヴァンシカが、床に倒れていた。
床に散らばる、絵筆と絵の具。こぼれているのは筆洗いの水のはず――そのはずなのに、それがなんだか血のように思えた。
「いや……」
白銀のシヴァンシカが血に染まっていく、そんな光景が見えた。
ナズナの体が震える。だめよ、そんなのだめよ、とナズナの魂の奥底で叫ぶ声が聞こえる。
――ふざけないでっ!
震える心の奥底から、そんな叫びが轟いた。その瞬間にナズナは金縛りから解け、我を忘れて叫んでいた。
「シ……シヴァッ! シヴァッ!」
倒れこむようにしてシヴァンシカに駆け寄り、肩をつかんで揺さぶった。何があったの、どうして倒れているの、そんな思いがナズナの心をかき乱し、声を張り上げて呼びかけた。
すると。
「ん……あ……ナズナ……?」
シヴァンシカが、ぼんやりと目を開けた。血相を変えているナズナを不思議そうに見上げ、まだ夢の中にいるような、間の抜けた声を返してくる。
「おかえりぃ、ナズナ。額、いいのあったぁ?」
ふわり、とあくびをして眠たそうに目をこすると、ゆっくりと起き上がった。
筆洗いの桶が倒れているのが見えた。
寝ている間に押しつぶしたような、絵の具のチューブが見えた。
チューブから飛び出した絵の具がこぼれた水に溶け、それが血のように見えていた――そう気づいて、ナズナは安心のあまり崩れ落ちそうになった。
「あ……あなたねえっ!」
のんきにあくびしているシヴァンシカを見て、ナズナは猛然と怒りがこみ上げた。ぽろりと涙がこぼれ、本気でシヴァンシカを怒鳴りつけようとした。
だが、そんなナズナにシヴァンシカがふわりと抱きついた。
「は……あ……え?」
「あー、安心するなあ……ナズナのぬくもり……ナズナ、だーいすき」
そのままずるずると崩れ落ちて行き、ナズナの膝に頭を乗せると、シヴァンシカはまた眠ってしまった。
「え……あ……シヴァ? え、なに、寝てるの?」
呼びかけてももう目を開けなかった。気持ちよさそうな顔で、幸せそうに寝息を立てるシヴァンシカ。ナズナはすっかり毒気を抜かれてしまった。
「も……もう、もう! なんなのよ、シヴァ!」
ナズナがむくれながら、えい、と思い切りほおをつねると、シヴァンシカは「うー、うー」と妙な声を上げた。だが起きる気配はない。かなり疲れているようだ。ナズナが出かけている間に何をしていたのだろうか。
「ほんと……人騒がせな」
ナズナはため息をつくと、魔法でシヴァンシカの体を浮かせてベッドへと横たえた。
「起きたら覚えてなさいよ、シヴァ」
そうつぶやいたものの、シヴァンシカの寝顔を見ているうちに怒りも静まってしまった。夕食まで少しあるし、それまで寝かせておこうと、ナズナはシヴァンシカの頰にキスをして、やれやれと踵を返した。
「ん?」
その時初めて、ナズナは部屋の隅に立てられているイーゼルに気づいた。そこに乗せられた画用紙に黒っぽい何かが描かれているが、薄暗くてよく見えない。
ナズナは杖を取り出すと、小さな明かりを灯してイーゼルに近づいた。
「え……」
画用紙に描かれている黒っぽい何か。それが何であるかがわかり、ナズナは目を見張った。
「これ……私?」
画用紙いっぱいに、ナズナが描かれていた。うそ、どうして、と驚きながらも、ナズナは絵に釘付けになった。
美しくて儚くて、でもどこかかわいらしい、自分の顔。
あまりにきれいに描かれていて、照れ臭さのあまり両手で顔を覆いたくなる。ちょっと盛り過ぎ、と落ち着かなくて全身がウズウズする。
だけど、どうしても目を離せない。ずっとこの絵を見ていたい。リンダの絵も素晴らしかったが、これはその比ではなかった。
シヴァには、自分はこういう風に見えているのか。
シヴァンシカがどれだけ自分を愛してくれているか、絵から伝わってくる気がした。そう感じた時、ナズナの目から涙がこぼれた。
「うれしい……」
どうして描いてくれたのだろう、何を思って描いたのだろう。今すぐにシヴァンシカを起こして聞きたかった。お礼を言って、キスをして、愛してる、て何度でも伝えたかった。
「素敵……素敵よ、シヴァ。私、とても幸せよ」
ナズナはあふれる涙をぬぐい、もっとよく見ようと絵に近づいた。
「あら、これ……」
絵の隅に、黒い絵の具で何かが描かれていた。何だろう、と目をこらすと、細い線で一筆書きに、何かの模様が描かれていた。
ピシリ、とナズナの中で何かが割れた。
落書きか、何かの模様か。そんな風に見えていたものが、瞬きの間に変わっていく。
それは文字だった。
それもこの世界にはないはずの、四十六文字からなる表音文字だ。
師匠に封じられた、ナズナの中の『誰か』が叫ぶ。その叫び声に封印がひび割れ、抑え込んでいた『誰か』の記憶が漏れてくる。
「これ……は……」
震える手を、ナズナは伸ばす。
縦書きの小さなサイン。それを指先でゆっくりとなぞり、間違いなくひらがなであることを確認する。
「この、サイン……」
ナズナは呆然として、ゆっくりと振り向いた。
幸せそうな顔で眠っているシヴァンシカ。その姿を見て『誰か』が歓喜の声を上げる。その歓喜の声に飲み込まれて、ナズナは『誰か』の代わりにつぶやいた。
「ひまり……なの?」
第7章 おわり
 




