27.師の教え
ザザザッ、という雑音が脳裏に響く。
数日前から、時折聞こえてくる音だった。現実に聞こえている音ではないが、空耳というには大きすぎて、何よりも不快で腹立たしい。心労が重なったゆえの耳鳴りだろうか。
パチリ。
指を鳴らす音が響き、ナズナはハッとして目を覚ました。
「失礼、ナズナ様。私の声が届いていなかったようですが」
「……なんでもないわ」
「なんでもない方が、油汗をかいたりしませんよ」
ミズハがハンカチを差し出した。ナズナは何も言わずにそれを受け取ると、額に浮かんだ汗をぬぐった。
シヴァンシカが描いた絵の額を買い求め、さあ帰ろうと馬車に乗り込んだところだった。座った途端に猛烈な眠気に襲われ、ほんの少しの間だが意識を失っていたらしい。
「お疲れのようですね」
「まあね。色々とあったもの」
馬車がゆっくりと動き出した。ミズハがそう命じているのか、馬車はかなりゆっくりと走った。
「ずいぶんのんびり行くのね」
「密談にはもってこいですから」
「ああ、そういうこと」
ナズナがハンカチを返すと、ミズハはそれをポケットに入れ、鞄から書類を取り出した。
「さて、ではまずご報告を。レクス国の大使、アラディブ導師が三週間前から行方不明となっています」
「は? 一国の大使が三週間も?」
大事ではないか、とナズナは目を見張った。大使と言えば、レクス国の全権を代表する者。そんな人が行方不明だなんて、レクス国としても共和国としても一大事である。
「レクス国の秘密主義も困ったものです。ジル様が訪問したときに判明したようで。共和国上層部は大騒ぎですよ」
「どうりでお父様、私が聞いても言葉を濁すわけね」
魔女であり娘とはいえ、ナズナはまだ学生。公になれば国際問題にもなりかねない一件をおいそれと教えることはできなかったのだろう。
「私が教えたことも内緒ですよ?」
「わかったわ」
「警察と軍諜報部が共同で捜索に当たっていますが、いまだ消息不明。先日の一件といい、ここにきてレクス国がらみで色々と騒ぎが起こっていますね」
「別々の事件かしら。それとも、根は同じ?」
「それはわかりかねます」
馬車が止まった。ナズナがちらりと窓の外を見ると、派手に飾り立てた四頭立ての馬車が走り去っていくのが見えた。
「あれは、ワイアット殿下の馬車?」
「そうですね。相変わらず悪趣味な方で」
ワイアットの馬車が見えなくなると、ナズナの乗る馬車がまた走り出した。
「あの方、もう卒業させられたのではなかったかしら?」
「その件でしたら、取り消しとなっています。卒業式まで共和国に滞在されるそうですよ」
なぜ、とナズナは目で問うた。
「カレン様が回復されました。警察の事情聴取に、自分に乱暴したのはワイアット殿下ではないと証言したそうです」
「予想外ね。絶対あの方だと思っていたわ」
「皆そう思っていましたからね。まあ日頃の行いの賜物ですね」
クククッ、とミズハが意地の悪い笑みを浮かべる。
「ちなみに、これは極秘事項ですが。カレン様はレクスの実の中毒症状だったようです」
「まさか!? ありえないわ!」
レクスの実の取引は厳重に管理されている。一般人が手に入れることはまず不可能、レクス国という特殊な国が相手ということもあり、裏社会の大物たちですら簡単なことではない。
「正規の研究機関が何重もの審査を経て、ようやく手に入れられるものよ。そんなものがどうして?」
「それは今捜査中のようです。ただ、奇妙な符合がありまして」
「なに?」
「カレン様が乱暴された時期と、アラディブ導師が行方不明になった時期が、ぴたりと一致します」
カレンが何者かに乱暴され、レクスの実の中毒となった。
そのレクスの実の原産国の大使が、ほぼ同時期に行方不明となった。
「偶然と言うには、いささか符合しすぎかと」
「そうかもしれないけれど……」
ナズナは胸騒ぎがした。
何か変だ、どこか作為的なものを感じる。レクスの実なんて、ナズナが物心ついて以来、共和国で噂になったことすらなかった。魔女にならなければ、知ることすらなかっただろう。
それがここへきて急に噂になり、実際に中毒者まで出ている。何かがおかしいと思った。
「待って。カレンが回復したってことは、誰かが治療したのよね? 誰が治療したの?」
「ベロニカ商会のご当主が、個人的に雇っていた薬剤師だそうです」
「……セシルね?」
「ご名答」
先日、ワイアットの紹介状を持って屋敷へやってきたというセシル。兄であるワイアットの名代としてシヴァンシカへの無礼を詫びると同時に、薬剤師として雇ってほしいと売り込みをしたと聞いている。
「動き出した、てことかしら」
「おや、ナズナ様は彼が黒幕とお思いで?」
「一般人がレクスの実の扱いなんて知っているわけない。ましてや十三歳の子供が。怪しいに決まってるわ」
「私としては、もう一人怪しい方がいると思いますが」
ミズハの指摘に、ナズナは思わず鋭い視線を返した。だがミズハは動じず、笑みを浮かべてナズナの視線を受け止めた。
「愛しい子よ」
ミズハが優しく呼び掛ける。ナズナはハッとして視線を緩め、静かに首を垂れた。
「魔女は知識を司り、知恵でこの世を導く存在。ゆえに思い込みは禁物。そう教えたはずですよ」
「……はい、お師匠様」
「先日、試したのでしょう? 結果はどうでした?」
何もかもお見通しなんだな、とナズナは震えた。嘘をついてもバレてしまう、真実をありのままに話すしかない。
「シヴァは……写真を知っているようでした」
「ふむ。この世界ではまだ限られた者しか知らない、お前が前世の記憶より拾い上げた技術を、聖女は知っていたと」
「はい……」
写真を見て驚かないシヴァンシカに、ナズナはうろたえた。どうして驚かないのかと、シヴァンシカに詰め寄りそうになった。
だけどそれは悪手。
敵か味方かわからないシヴァンシカに、己の手の内をさらすことになる。慌ててごまかしたが、もしもシヴァンシカが敵ならば、写真を見せた意図に気づかれているかもしれない。
「でも……シヴァは……シヴァは絶対、私の敵じゃない……」
「おやおや。相手が神託の聖女でも断罪する。そう言っていたのはお前ですよ」
「それは……」
目をそらしたナズナを、ミズハは「困った子ですね」と笑う。
「私に問われ、強がりましたね? 神託のノートを見たがったのは、聖女は無関係と確信したかったから?」
「はい……すいません……」
「謝ることはありませんよ。ふふ、あなたは本当に一途ですね」
ですが、とミズハは首を傾げ、ナズナを見つめる。
「そういう想いを利用する者もいます。気をつけなさい」
「お師匠様は……シヴァをお疑いなのですか?」
「確証はありませんが、疑わしいのは確かでは? 『魔女のしもべ』のことを知っていたのですからね」
かけた魔女ですら解けない、魂までも縛る永遠の呪い。
それは魔女にとっても禁忌の術とされ、知っているのはごく一部の魔女のみ。使える者となるとさらに少ない。
ナズナと、ナズナの師であるミズハは、その数少ない術者だ。むろん教わった時に口外しないよう厳しく注意され、ナズナはその言いつけを守ってきた。
だが、シヴァンシカは知っていた。
誰に聞いたのかと問い詰めたら、ナズナが教えてくれたんじゃなかったか、なんて答えた。
ありえない、絶対にありえない。
魔女との接触すら忌避される聖女のシヴァンシカに、魔女にとっても禁忌であることを、ナズナが教えるわけがない。
「何かの……何かの間違いです。ひょっとしたら私が、うっかり口を滑らせていたのかもしれません」
「私の弟子は、そんなに間抜けではないはずですよ」
震える声で答えるナズナに、ミズハは穏やかな声で応じた。
「愛しい子よ、お前が誤らぬためには、正しく見極めることが大切ですよ」
「はい……」
「やれやれ、そんな悲しそうな顔をして」
ミズハの手が、ナズナの瞳からこぼれた涙をそっとぬぐった。
「お前が信じ愛した者が、同じようにお前を信じ愛していることを、私は祈っていますよ」
「はい……ありがとうございます」
「なすべきことをやりなさい。それが、お前ができる唯一にして最善のことです。わかりましたね?」




