26.足りなかったもの
翌日。
ナズナはシヴァンシカが描いた絵を携え、取引のある画商のところへ出かけて行った。
静養という名の軟禁中であるシヴァンシカは、一人留守番だった。
朝食をのんびりと取り、部屋に戻ってベッドに寝転んだ。三日間、根を詰めて描き続けたせいだろう、とても疲れていた。ナズナにも今日はゆっくり休むようにと言われたが、気持ちが高ぶって眠れそうになかった。
今なら。今の私なら。
焦りのような感情が、シヴァンシカを突き上げる。
寝ている場合じゃない、早く描かなきゃ、すぐに絵筆を握らなきゃ。そんな思いに突き動かされ、シヴァンシカはイーゼルを立て、画用紙をそこにセットした。
思い浮かぶのは、夢で見たあの絵。
『私』が挑み続け、とうとう描けなかったナズナの絵。
シヴァンシカの心臓が、ドクンドクンと脈打つ。
リンダの肖像画を描いているときは、ただひたすらに楽しかった。
でも今は違う。
怖くて、不安で、緊張で体が火照り、胃のあたりがひんやりとする。やっぱりやめよう、そう思ってベッドに戻るのだが、どうしても落ち着かずまたイーゼルの前に立ってしまう。
イーゼルとベッドの間を四度往復し、五度目に立ったとき、ついにシヴァンシカは絵筆を握った。
バクバクと心臓が激しく打ち始める。
胃の中の物が出てきてしまいそうで、何度もつばを飲み込んだ。呼吸が浅くなり、脂汗が背中を流れ、回れ右をしてベッドにもぐりこんでしまいたくなる。
「行くよ、私」
だが、シヴァンシカは歯を食いしばって踏みとどまり、絵筆に絵の具を乗せた。
「こ……のぉっ!」
過呼吸になるほどの緊張をねじ伏せ、シヴァンシカは絵筆を走らせた。
一筆目は、手が震えて波打った。
二筆目は、力を込めすぎて画用紙をはみ出てしまった。
だけど三筆目からは落ち着きを取り戻し始めた。四筆目、五筆目と、筆を動かすたびにシヴァンシカの心が落ち着いていき、やがてシヴァンシカは絵に没頭した。
描くのは、シヴァンシカ最愛の人、ナズナ。
『私』が一目で心奪われ、命を賭けて描こうとした人。
何千枚も描いた。
目を閉じていたって描けるほど描き続けた。
だけどどうしても理想のナズナにならず、描くたびに絶望した。
美しくて儚い、「漆黒の魔女」ナズナ。
一目で恋に落ちた、理想のナズナ。
『私』が描き続けたナズナは、最後まで「似顔絵」でしかなかった。どうしてなの、なんでなの、と涙を流して悔しがり、命尽きるまで描き続けたが――とうとう描けなかった。
だけど、今なら。
今なら描ける、そんな気がして、シヴァンシカは絵筆を動かした。
「ここ……から……」
ナズナの「似顔絵」が出来上がる。ここで終わりじゃないと、シヴァンシカは深呼吸とともに目を閉じた。
写真なんていらない。
目を閉じればナズナの姿が思い浮かぶ。
髪の色、瞳の色、肌の色。
喜び、怒り、哀しみ、楽しそうに笑う。そのたびに変わるナズナの表情。
抱きしめたときの温もり、小柄な体に似合わぬ強い力。物静かで控えめな、だけど本当は誰よりも強くて誇り高い、稀有な存在。
全身全霊でシヴァンシカを愛してくれている、かけがえのない人。
「殺したいほど憎いのに……あなたが好きでたまらない。初めて会った、あの時から……」
不意に。
ナズナが告げる、その言葉を思い出した。
「ゲーム」の中で、破滅するときに必ず言うナズナの言葉。ただのライバルキャラではなく、ナズナこそ真のヒロインと言わしめる切ない告白。自分を裏切ったシヴァンシカへの、それでも消えぬ思慕、一途な想い。
「大好きよ、シヴァ」
共に過ごしたこの七年で、ナズナは何度もそう言ってくれた。言われることに慣れてしまい、それが当たり前だと思っている自分に気付き、シヴァンシカは恥じた。
当たり前ではない。
多くの出会いを経てもなお、シヴァンシカが一番好きだと言ってくれることは、決して当たり前ではない。
「そうか……」
ようやくわかった。
『私』の絵に足りなくて、『あの人』の絵にはあったもの。
美しくて儚くて、やがて破滅するライバルキャラ。その「設定」にとらわれ過ぎて、『私』は大切なことを忘れていた。
「そうよ。ナズナは……とても一途で、かわいい女の子なのよ」
『あの人』は、最初に『私』が描いたナズナを否定していなかった。
あまりの技術の差に圧倒され、『あの人』が書き加えた美しさと儚さに目を奪われてしまった。
だが、ちゃんと『私』が描いたかわいらしさも描いていた。『私』はそれに気づけず、ひたすらに美しくて儚いナズナを追い求め、何かが欠けたナズナしか描けなかった。
甘えたがりで、情熱的で、一途にシヴァンシカを慕うナズナ。
そんなナズナに似合う色はなんだろう。
黒ではない。「漆黒の魔女」と呼ばれているナズナだが、それはナズナの本当の色ではない。
なぜならナズナは、とてもかわいい女の子なのだから。
「ふふ……ド定番よね、ピンクなんて」
シヴァンシカは笑う。
だが、それしかないと思う。でもどのピンクだろうと考え、すぐに答えが出た。
桜色だ。
ソメイヨシノのあの淡い色。春のひとときに華やかに咲き、ほんの数日で美しく散っていく花の色こそ、ナズナにふさわしい色ではないか。
桜の花びらが舞う中、静かに立つ「漆黒の魔女」ナズナ。
その光景が浮かんだ瞬間、シヴァンシカは目を開き、再び絵筆を動かし始めた。
漆黒の魔女に、桜色の彩りが加えられていく。
美しく儚い姿に、一途でかわいらしい魂が込められていく。
ただの似顔絵が肖像画へと生まれ変わった。そこに、シヴァンシカ最愛の女性の姿が再現された。
「でき……た……」
美しく儚く、そしてかわいらしく微笑む、漆黒の魔女ナズナ。
死ぬまで挑み続けて、とうとう『私』には描けなかったナズナ。
それが、ついに描けた。
「描けた……やっと、やっと描けた……」
シヴァンシカの瞳から涙があふれた。
会いたかった、このナズナにずっと会いたかった。
ただの「ゲーム」のキャラクター。「設定」をもとに『私』がデザインした架空の存在。そんなナズナに『あの人』が魂を込め、『私』はナズナを愛してしまった。
自らの手で生み出しながら、二度と届かぬ高みへ行ってしまったナズナ。
だけど諦められなかった。
もう一度、今度は自分の手で描いた、愛するナズナに会いたかった。
だから命を賭けた。
でも足りなかった。
だからシヴァンシカとして生まれ変わった。
破滅を覚悟して共和国ルートを選び、ナズナを知るために、その傍らで短い人生を歩むことを願った。
「私は……これを描くために、生まれ変わったのね……」
シヴァンシカの中から『私』の想いがあふれ出す。
「ばかね……私、遠回りしちゃった。ずっと私の中にいたのにね。私の理想のナズナは、こんなにもかわいらしい人だって、私は最初から知っていたのにね」
シヴァンシカは涙を拭うと、小筆を取り、画用紙の端に小さなサインを入れた。
それは『私』が使ったサイン。
これで完成。これが『私』のナズナ。
「終わったわ……」
シヴァンシカは満ち足りた気分で筆を置いた。
「もう思い残すことはない。私……幸せな人生だったわ」
シヴァンシカは微笑を浮かべ、そうつぶやくと。
ゆっくりと瞳を閉じ、そのまま床に崩れ落ちた。




