25.絵を描く楽しさ
服装を整えたナズナは、お茶が冷めていることに気づき「取り替えて来るわね」と茶器一式を持って出て行った。
「……あぶなかった」
シヴァンシカは上着のボタンを留め終えると、大きく深呼吸をした。
一体何がスイッチだったのだろうか。
リンダの写真を持ってきてくれたナズナ。「浮気じゃないから」と必死で言い訳する姿がかわいくて抱きしめたら、息ができなくなるほど強く抱きしめ返され、あれよあれよという間に押し倒されてしまった。
あと少し強引に来られたら、シヴァンシカも抗いきれなかっただろう。
別れの日が近づくにつれ、ナズナの行動が積極的になっていく。想いは同じシヴァンシカ。ナズナの求めを無下にすることができず、どうしても流されてしまいそうになる。
だけど、それは正しい「選択」なのか。
その思いがシヴァンシカを踏み止まらせる。一線を超えてしまったら、何か決定的な「選択」になるような気がしてならない。それがナズナを救うのか破滅させるのかがわからず、怖くてたまらない。だから「どうしてダメなの」と無言で問うナズナから、目をそらすことしかできなかった。
「……切り替えよ」
ぱん、と軽く頬を叩いて絵筆を握ると、シヴァンシカはナズナから借りた写真を凝視した。
「やっぱりリンダ様、美人よねえ」
豪奢な金髪に、はっきりした目鼻立ち、すらりとした体。落ち着いた雰囲気の大人の女性。
そんなリンダの人柄を示すもので、自分の絵に足りないものを写真から読み取る。読み取ったものを感性で咀嚼し、絵の中に再現していく。
(……よし!)
シヴァンシカは再び絵筆を動かし始めた。
四つ切り画用紙に、水彩絵の具。
肖像画ならキャンバスに油絵の具が定番だろうが、『私』が一番よく使っていたのは水彩絵の具だった。プロに頼んで描いてもらうわけではない。水彩絵の具なら手作りの贈り物らしくていいだろう。
「楽しいな」
思わずそんなつぶやきが漏れた。
シヴァンシカの中の『私』がうきうきしている。絵を描くのが楽しい、楽しくて楽しくてたまらない、そんな思いが湧き上がってきて、シヴァンシカは無我夢中で絵を描き続けた。
新しいお茶を持ってナズナが戻ってきたが、シヴァンシカはそれにも気づかないほど夢中で絵筆を動かし続けた。
ナズナはソファーに腰を下ろし、黙ってシヴァンシカが絵を描く姿を見ていた。
途中でナズナが戻ってきたことに気づいたシヴァンシカは、ちらりと振り返って笑顔を浮かべる。ナズナも優しい笑みを返し、「そのまま続けて」とうなずく。
ナズナが見守る中で、シヴァンシカは絵に没頭した。
水彩画の淡い色彩に、ところどころはっきりとした色を入れて、リンダの柔らかさと強さを表現する。いつも着ているすっきりとした装いではなく、あえて豪華なドレスをまとわせて美しさを際立たせる。
シヴァンシカが絵筆を動かすたびに、リンダの似顔絵が肖像画へと変わっていく。
それが、楽しくてたまらない。
描きたいことが描きたいように描ける、それが心の底から楽しかった。
ナズナが止めなければ、シヴァンシカは夜を徹して描き続けていたかもしれない。
翌朝も早くから起きてリンダの肖像画を描いた。朝食も取らずに絵を描くシヴァンシカを見て、ナズナはあきれた顔をしていたが、止めはしなかった。
そして、三日目のお昼すぎ。
「うん……できた」
シヴァンシカは絵筆を止め、ふう、と息をついた。
ソファーで見守っていたナズナが立ち上がり、シヴァンシカの隣にやってきた。
「素敵。素敵よ、シヴァ」
しばらく絵を見ていたナズナが、うっとりとした声でつぶやいた。
「柔らかで強くて、それでいて美しい。リンダ様そのものだわ」
「うん。なんとか描けたかな」
「好きよ。シヴァの画風、私は大好きだわ。お世辞でもなんでもなくてよ」
「ありがと。ナズナに褒められるのが一番うれしいな」
ナズナはシヴァンシカの横に立ち、そっと腕を絡めた。
「それにシヴァ、とても楽しそうだった。見ていて私も楽しくなったわ」
「うん、楽しかった」
「ほんと悔しいわ。私そっちのけで、絵に夢中になっているんだもの」
ふふ、と笑いながら、ナズナがぎゅっとシヴァンシカの腕に抱きついた。
「でも、そんなシヴァが見られてうれしい。もっと早くシヴァに絵を描かせてあげればよかった。そうしたら、楽しそうなシヴァがたくさん見られたのに」
「そうだね」
思えばシヴァンシカとしての人生で、こんなにも楽しく充実した時間を過ごしたことはなかった。ナズナと過ごす時間は甘く幸せだが、それとは違う楽しさに、シヴァンシカは心が晴れる思いだった。
「ねえナズナ。これ、額に入れて贈りたいな」
「ええ、もちろんよ。任せて、私が一番素敵な額を選んであげる。明日、取引先の画材屋に行ってくるわ」
「お願いね。あ、お金は……」
「いいわ、私が出すから。絵はシヴァから、額は私からの贈り物ということにしましょう」
「いいの?」
「いいの。シヴァは技術を、私はお金を出す。それだけよ」
「でも、素人の絵よ?」
「いいえ、シヴァ」
戸惑うシヴァンシカを、ナズナは笑顔で見つめた。
「あなたの絵は素晴らしいわ。たとえあなたが聖女サマでなくても、この絵ならお金を出して買う人がいる。間違いなくてよ」
「それは……お世辞でも嬉しい言葉ね」
「お世辞なんかじゃない。ギムレット家の娘として、私の名誉にかけて保証してあげる」
ナズナは真剣な目でシヴァンシカを見つめた。
「あなたは立派な画家よ。胸を張って、シヴァ。あなたは私が知る限り、最高の画家の一人よ」




