23.狂気
ディスプレイに映る「ナズナ」に目を凝らし、『私』は手を動かし続けた。
「……違う」
描き上がった自分の絵を見て、『私』は唇を震わせる。
コレジャナイ。
コレは私が描きたい「ナズナ」じゃない。
悔しい、悔しい、悔しい。
描けない。
あの美しくて儚い、理想の「ナズナ」が描けない。
同じ画材で、同じ大きさで、同じ色使いで。
髪の毛一本すら狂いなく、全く同じように描いたつもりなのに、届かない。
アレは芸術、コレはゴミ。
「く……ううっ……」
涙があふれる。
楽しくない。
生まれて初めて、絵を描くことが楽しくないと思う。
辛くて、苦しくて、真っ白な画用紙を見るだけで息が苦しくなる。
「ぐっ……ぐほっ……」
喉の違和感を感じ、『私』は慌ててタオルを口に当てた。激しく咳き込んで、タオルを見ると血の混じった痰がついていた。
もうやめたい。
もう逃げたい。
『私』にあんなのは描けない。
――ふざけんな!
――てめえのわがままで、プロジェクト潰す気か!
――制作費全額払わせるぞ!
怒鳴り散らされた声がよみがえる。
悪いのは『私』、わがままを言っているのは『私』。わかっている。だけどどうしても諦められない。
「ひっ……ぐっ……」
『私』は泣きじゃくりながら、また絵筆をとる。
何回でも、何十回でも、何百回でも、何千回でも、何万回でも。
あの「ナズナ」が描けるようになるのなら。
『私』はこの命が尽きてもいい。心の底からそう思った。
※ ※ ※
目を開けると、心配そうな顔のナズナが見えた。
「起きた?」
「あ……れ……私……」
「戻ってきたら倒れてるんだもの。びっくりしたわ」
「ごめん、ちょっと休憩と思っただけなんだけど……」
ナズナの手が額に当てられた。
ひんやりとした手の感触が心地よくて、シヴァンシカはほっと息を吐く。
「起き上がれる?」
シヴァンシカはうなずき、ゆっくりと体を起こした。
ドクン、ドクン、と心臓が脈打っている。毎度毎度、『私』の夢を見た後は気分が悪かった。
ナズナが水差しの水をコップに入れて差し出してくれた。シヴァンシカは礼を言って受け取ると、一気に飲み干した。
「おいし」
ふう、と深呼吸して背中をソファーに預けた。
嫌な夢だった。
あんな思いをしてまで、『私』は絵筆を走らせていたのか。シヴァンシカは、夢の残滓としてくすぶっている『私』の思いに身震いする。
美しくて儚い、理想の「ナズナ」を追い求めて。
『私』は狂気に近い思いで、ひたすらに絵筆を動かし続けていた。
「シヴァ、大丈夫?」
じっと考え込んでいたら、ナズナが心配そうに声をかけてきた。シヴァンシカはナズナを見つめ、ふっと笑う。
「ナズナって、本当にきれい」
「なに、突然」
面食らっているナズナを抱き寄せ、シヴァンシカは唇を重ねた。ナズナは少し驚いたが、逆らわずにシヴァンシカに身を預け、両腕をシヴァンシカの首に回す。
「ふふ。シヴァもとてもきれいよ」
長いキスの後、ナズナはとろけそうな笑顔でシヴァンシカの頬を撫でる。
情欲が見え隠れする、妖しい笑み。
それがゾクリとするほど美しい。こうして目で見て、手で触れて、抱きしめることができるなんて、幸せすぎて怖いくらいだ。
でも『私』にとってナズナは、実在しない「ゲーム」の中だけの存在。
この笑顔を見たければ、想像するか自分で描くしかない。だとすれば――『私』が狂気に近い思いで絵筆を走らせ続けたことを、シヴァンシカは少しだけわかる気がした。
「大好きよ、ナズナ」
ありったけの思いを込めてナズナを抱きしめる。シヴァンシカの腕の中で、ナズナは吐息を漏らす。
「今日はとても情熱的なのね」
「三日もナズナと部屋に閉じこもっていたから、かな」
「このままベッドに行く? 構わなくてよ?」
「こら、聖職者を誘惑するな」
「だって、せっかくシヴァがその気になってくれそうなんだもの」
ナズナがクククッと笑った。
その笑い方がまた蠱惑的だ。ナズナの甘えっぷりも、日ごと夜ごとに拍車がかかっている。なんとか踏みとどまっているが、そろそろシヴァンシカも誘惑に負けてしまいそうだった。
「それに、私は魔女よ。聖女サマを誘惑するのは義務なの」
「あのね……」
冗談めかした口調だが、半分以上は本気だろう。このままシヴァンシカが誘惑に負けたら、間違いなく国際問題だ。
「さあ聖女サマ、いかがいたします?」
「もう、ナズナったら」
その本気さには気づかないふりをして。
シヴァンシカはナズナの額にキスをし、部屋の中央に目を向けた。
「リンダ様が見ているから、だーめ」
シヴァンシカの視線の先にはイーゼルが立ててあり、そこに書きかけの絵が置かれていた。
描かれているのは、豪奢な金髪の美しい女性。
シヴァンシカの唯一と言っていい友人、リンダだ。
そのリンダの絵を描いているのは――誰あろう、シヴァンシカだった。