21.知らないシナリオ
小さなランプの明かりの中、ノートを見つめるシヴァンシカの目には困惑の色が浮かんでいた。
神殿付きの女官が所持していたことから始まる、レクスの実の密売疑惑。
留学先の五つの国のうちのひとつ、コルベア公国ルートで発生する「イベント」だ。
その「イベント」をきっかけに、レクスが国を挙げてレクスの実の不法取引をしているのではないかと疑われる。シヴァンシカは公国の王子に協力を依頼し(見返りに体を要求され、泣く泣く応じるのがお約束)、公国内に巣食う密売組織を暴き出してレクス国を救う、というのが公国ルートの主要ストーリーだ。
それゆえ、公国ルート以外では発生しないはずの「イベント」なのだが。
それがここ共和国で発生した。
「そういえば……」
思い返してシヴァンシカは慄然とする。
二週間前のあの日。もしもワイアット王子に連れて行かれたのなら、怪しい薬で心を狂わされ、身も心もボロボロにされるはずだった。
そうはならなかった代わりに、ベロニカ商会の令嬢カレンが薬物で錯乱した状態で発見された。
「あれも、レクスの実だった……?」
どうして不思議に思わなかったのか、なぜ気づかなかったのか。
シヴァンシカは慌ててノートをめくり確認したが――やはり共和国ルートでレクスの実に関する「イベント」の情報は一切ない。
「なんで? どうして?」
薬物で心狂わせたカレン。
リンダからのお茶会への誘い。
女官によるレクスの実の不法所持。
『私』の記憶にない「イベント」が続けて発生している。
ノートを何度読み返してもヒントらしきものすらない。
このままではお茶会が決定的な「イベント」になるのでは、という不安が拭えない。できれば断りたい。しかし将来の外交官からのお誘いでもあり、ナズナに「これは断っちゃダメよ」と諭された。
「それに……あの短剣……」
やはりあの短剣はシヴァンシカのものではない。ノートに書いたメモによれば、ナズナが師匠から譲られた短剣だ。それがどうして聖女の正装に含まれているのか。
シヴァンシカは、『私』が知らない「ルート」に入ってしまった。
そうとしか考えられなかった。
これまで危機を回避するのに役立ってきた『私』の記憶。その記憶にない「シナリオ」に突入している。そのせいで細かな「設定」が変わっている。
どうしよう、どうすればいい?
シヴァンシカは焦った。『私』の記憶という、チート技が使えなくなった。この先シヴァンシカは自分で状況を判断し、適切な行動しなければならない。
だけど、そんなの自信がない。
思えばシヴァンシカの人生は、常に『私』の記憶頼りだった。問題を未然に回避し、あるいは解決方法を知っている問題にしか直面しなかった。
でもこれからはそうではない。シヴァンシカの知らない未来が訪れ、どちらに転ぶかわからない決断を迫られる。
「嘘でしょ……いまさら……無理だよ……」
恐怖で震えた。
判断をひとつ間違えば、破滅するのはナズナになる。そうなってしまったら、シヴァンシカは悔やんでも悔やみきれない。
コツコツと、部屋の扉が優しく叩かれた。
シヴァンシカはハッとなって、慌ててノートを引き出しに押し込んだ。
「どうぞ」
誰が来たのかなんて確認するまでもなかった。シヴァンシカが答えると、静かに扉が開き、寝間着姿のナズナが入ってきた。
「まだ、起きてたのね」
いつもならすぐに近づいて来るナズナが、閉めた扉の前に立ったまま動こうとしなかった。
何かに迷っている目で、シヴァンシカを見つめている。初めて見るナズナの表情にシヴァンシカの不安が募り、またお腹をギュッとつかまれたような気分になった。
「……ミズハから連絡があったわ。あの女官、無事に国境を越えたそうよ」
ナズナが静かな口調で告げた。
サラは、即座に帰国させられることになった。内密に済ませるため大使館にも伝えず、ギムレット家がすべてを処理した。
「シヴァ」
いつもの呼ばれ方に、シヴァンシカは少しだけホッとした。
「あなたは衣装合わせを済ませた後、体調を崩して寝込んだ。あの女官は、私たちにシヴァを頼んで早々に帰国した。忘れないでね」
すべてはシヴァンシカのあずかり知らぬこと。そうするために、シヴァンシカは全てが終わるまで自室で待機するよう命じられた。この件、シヴァンシカが「知っていた」となれば言い訳できないのだ。
「わかったわ」
「お父様が、お礼の品について確認という口実で、明日大使館へ行くわ。アラディブ導師なら後始末をちゃんとしてくれるでしょう」
「……ジル様は、何かおしゃってて?」
「困ったものだ、て……それだけよ」
ジルの苦渋に満ちた顔が思い浮かぶ。シヴァンシカの帰国まであと半月というタイミングでのこの騒ぎ。内心は穏やかでないだろう。
「ごめんね、迷惑かけて」
ナズナは無言のままシヴァンシカを見つめた。なんだか怒っているようなその顔を、シヴァンシカは上目遣いに、黙って見つめることしかできなかった。