00.願い
「――! ――!」
誰かが『私』に呼びかけていた。
だけど、もう返事をする気力も出ない。
放っておいて、このまま眠るから。そう考えて無視しようとしたけれど、体を揺さぶられ続け、眠ることができなかった。
「すぐ来るから! 救急車がすぐ来るから! しっかりして!」
しつこい。
一体誰だろう、としぶしぶ目を開けた。
初めて会う女の人だった。『私』より少し年上、マネージャーさんと同じくらいかな。すごく美人、というわけじゃないけれど、おしゃれでかわいらしい人だった。
この人、誰だろう。
だけどなんとなく――そう、なんとなくだけど。
『私』が大好きな、ナズナに似ていると思った。まあ、『私』が知っているナズナはものすごい美女で、この人はもうちょっと庶民的というか、親しみが持てるというか――あは、こんなこと考えてるのばれたら怒られるかな。
「見えてる? 私がわかる? しっかりして!」
『私』の顔を覗き込んで、必死で声をかけてくる。
どうしてそんなに必死な顔をしているのか、よくわからない。
与えられた仕事も満足にできない、ただのバイトなのに。
ただのバイトの身で、プロジェクトひとつ潰しかけたのに。
『私』が死んだところで、世界は何も変わらない――困る人なんて誰もいない、そんなみじめな存在なのに。
赤の他人が、どうしてそんなに必死なんだろう。
「もう……いい、から」
その女の人の向こう側に、ナズナが見えた。
漆黒の魔女。
そう呼ばれる、美しくて儚い、理想の女の子。
それは水彩画の手法で描かれた、とても美しい女の子の絵。
この世のどこにもいない、架空の存在。
だけど『私』は、あの美しい絵を一目見て、恋に落ちてしまった。
あのナズナに会いたくて、死に物狂いでがんばった。何度も泣いて、血反吐をはいて、あがいてもがいて、自分のすべてをかけた。
だけど、届かなった。
ああ、自分はこの程度かと思い知った。だから――もういい。
「何がもういいのっ!」
女の人が怒鳴った。『私』の手を取り、手首に巻いたタオルを取り替えた。
タオルがみるみる赤くなっていく。ものすごく強く縛り付けているのに、血は止まらない。
「せっかく会えたのに! やっと会えたのに!」
『私』の手首を押さえる女の人の手もまた、血に塗れていく。こぼれた血で、高そうな服が汚れていく。
「服……汚れる……よ」
「バカッ! そんなのどうでもいいのよ!」
「もう……いいから……あとは……おねがい……」
おねがい?
なにを?
なぜそんなことを言ったのか、よくわからないけれど――そう言わなければいけない、そんな気がした。
「ふざけないでっ!」
女の人が激怒する。ああこれ、本気で怒ってる。どうしてだろう、知らない人のはずなのに。
ひょっとして、知り合いだったかな――ああ、だめだ。意識がぼやけていく。
「目を開けて! しっかりして!」
また体が揺さぶられた。
もう力が出ない。たぶんもう目を覚ますことはないかな。
神様。
『私』が悪い子だ、てことはよくわかってます。
だけどお願い。どうか『私』を、ナズナのいる世界に生まれ変わらせてください。
二度と会えない高みに行ってしまったナズナに――ただすれ違うだけの人でいいから、どうか会わせてください。
「死なせない……」
意識が薄れていく中、女の人が『私』の手首を握り締めた。
「あなたは絶対、死なせないからね!」