ヒーローの南 16(終)
誰もいない朝の小道に響く、キャリーケースを転がす音。
早朝の飛行機で薫は東京に帰る。私は見送るためにバス停までの道を薫と並んで歩いていた。
「今日仕事でしょ? ついてこなくていいのに」
「まあ、いいから」
「どうせもうすぐお盆に帰ってくるのに、大げさだよ」
薫の飛び込みの仕事で短い時間となってしまったが、一人暮らしの空間に他の誰かがいて会話ができる時間がこれほど心地よいものだとは思ってもいなかった。こうやって薫にくっついてきているのは単なる見送りだけでなく、二人でいる時間を少しでも引きのばそうとする、そういうこずるい気持ちもあった。
私は思いつく限りの話題を絞り出す。
「そういやさ、ライトセブンズって、昨日は五人しかいなかったけど、セブンっていうくらいだから七人じゃないの?」
「お姉、番組見てないの?」
「特撮は興味ないし」
「今は五人だけど、もうすぐ七人に増えるよ。いわゆる追加戦士、テコ入れ、それとおもちゃの販促」
「昨日一昨日は出演する人達、みんなバタバタだったんじゃない?」
「裏舞台のことは夢がなくなるから一切話せません」
他の演者さんも緊急の代役だった人が何人もいたはずだ……本当に、お疲れ様です。
バス停に着き、日陰になっていた場所で待つ。那覇の方面へ向かういくつもの車が私達の目の前を通り過ぎていく。
「足、昨日のでまた怪我が増えたんじゃないの?」
「階段に引っ掛けたところの皮膚は少し切れちゃったけど、今回はたぶん大丈夫」
「帰ってから、何かおかしいと思ったら病院に行きなさい。その時は今回起きた副作用のこととかは隠さず全部話すこと。あと――薬は用法用量を守って、正しくお使いください、ねっ!」
と、CMのようなことを言ってやった。
「薬剤師みたい」
「薬剤師だっつーの」
そう口に出すと、改めて仕事の責任の重みを感じる。
「薫こそ、昨日は本物の役者みたいだった」
「役者ですから。い・ち・お・う!」
――ああ、やられたな。
私達は顔を見合わせて、笑った。
「あ、来た。百〇一番のバス」
わずかに人を載せていたバスがエンジンをうならせ、私達の傍でゆっくりと停まった。
「それじゃあ……お世話になりましたっ!」
薫は去り行くバスの中から、ずっと手を振り続けた。
道の果てへバスが消えるまで、私も手を振り返した。
夏のそよ風が吹く。ずいぶん暑く感じる、だとか、潮の香りが混ざってるかも、とか、東京の七月の風との違いを語れる相手が去って、また一人に戻ったということを実感する。
私はずっと、薫には役者のことなど何一つこなすことはできないと思っていた。ヒーローになるなんて夢は、ただの夢物語で終わるだろうと考えていた。けれども、その夢への第一歩をこの目で見届けることができた。
父と母は心配しながらも薫が追う夢をずっと応援している。薫が高校にあがる時に様々な約束を守ることを誓ったからこそ、新体操のレッスンや、演劇の私塾に通うことを許したのだ。だから私も、どうせ無理だとあざけるのではなく、約束の日が来るまでは薫が進む道を信じてみよう――そう思った。
誰に聞こえることもなく私は呟く。
「ピグマリオン様、どうか薫が本物のヒーローになれますように……」
「――なーにがピグマリオン様だ」
唯一聞こえる誰かがいるとすれば、頭の中の『友達』――桂皮が私の傍に現れ、腕を組んで悪態をついた。
「願掛けするならピグマリオンじゃなくて、像のほうでしょうが。このボケナス」
「そうだったね」
「あー暑い。早く帰ろ。これから仕事なのに何やってんだか」
桂皮は家へと踵を返すが、ふと振り返って、
「ああ、そうそう、あんたはどうなの?」
「何が?」
「あんたの夢って何なの? 面接とかで言うようなお行儀のいいのはいらないからさ、本音を教えてよ」
私の? 私の夢は薬剤師になって、患者さんの役に立って……ならば、もはや少しは叶ったと言えるかもしれない。
でも、私の夢は……本当にそれなのだろうか?
――ヒーローの南・了――




