ヒーローの南 15
マイクを左手に持った薫は空いている右手を大きく使いながら、この類のショーに定番の注意事項をゆっくりと喋り続ける。私も小さいころによく見た、舞台の上の演者――自分の妹がまさに今それになっているのは不思議な感覚だった。
説明を終えた薫は会場の子供と一斉に、
「ライトセブンズ―!」
と叫ぶ。すると上手側の袖、つまり薫の背後を襲う形で飛び出てきたのは悪役の怪人。
何人かの子供が驚きの悲鳴をあげる。私ですら予想だにしていなかった方角からの登場に、声に出さずとも少しだけ動揺していた。
薫は腕を大きく広げて驚きのポーズ。いかにも演技といった感じのわかりやすい挙動だ。薫が下手のほうに逃げると、そちらにももう一人の怪人が顔を出し、上手へと再び駆けだす。本気で襲うならば挟み撃ちにされ大ピンチという状況だが、これはやはりショーの一環。最初の怪人は「あいつらは来ない!」などという台詞を発しながら客席へと続く階段を降りたことで上手の袖が空き、薫はそこからハケた。
だが、会場の視線が二人の怪人に集まる最中、薫が舞台下への小さな階段を降りる、その最後の一段で、怪我を負っていた右足が――それを踏み外した。
がくんと薫の体が下がり、機材を見張っていたスタッフの視線がその方向へ向く。
私は息を飲んだ。
階段は舞台設営ではよく見る金属板の小ぶりなタイプ。ヒト一人の体重が一気に加わればショーの進行を妨げる騒音を発する。それに、マイクはスイッチを切ってあるのか? 入れたままならば、階段落ちの比ではない大音量がスピーカーから流れてしまう――
しかし薫は前のめりの四つん這いで床に倒れた。転倒した音は怪人の口上とBGMによってかき消され、マイクで拾った音は何もない。電源は切ってあったのだ。観客の子供達はステージ上に夢中で、転倒した薫のほうに注目が集まることもなかった。
薫は今、何をしたのか――この時は瞬時に理解できなかったが、後で薫から聞いた話によれば、踏み外した右足の脹脛やアキレス腱の辺りを階段に押し付けて咄嗟に前方へ体を倒す軸として使い、さらに左足で踏ん張りをきかせて無理やり前に飛び込む――このような芸当をやってのけたということだ。
運がよかった――いや、決してそれだけではない。これまで薫が体のあちこちを痛めながら積み重ねてきた努力――それが薫自身を救ったのだ。
(よかった……でも、また怪我が増えたんじゃ……?)
立てるのか、進行は続けられるのか。不安は尽きることがなかった。気づいたスタッフも薫の方を凝視していたが薫はすぐに立ち上がって舞台下の所定の位置と思われる場所まで歩き、直立して止まった。
そこから先のショーなのだが、さっきの転倒で肝を冷やすどころか、全身の臓器という臓器が潰れるような感覚を味わった私の注意は散漫になり、どんな内容だったのかはうろ覚えだった。せいぜい覚えているのは、薫がまた何かの台詞を喋っていると、いつの間にかヒーローが出てきて戦い始めたこととか、
「頑張れー!」
というお約束の掛け声が会場から一斉にあがったことくらいだ。
そして、
「今日は来てくれてありがとうございました! この後はライトセブンズ達との撮影会です――」
そんな薫の声と万雷の拍手が耳に入ってきたことで、
「終わった……?」
ようやくそんなことに気付いたのだった。
それからしばらく、私達はモールの中のフードコートで薫が出てくるのを待っていた。三人によればショーが終わったときの私は「魂が抜けていた」「目が死んでた」などと、散々な言われようだった。あんなハプニングを見せられてしまったのだから、そりゃそうなるよ。
しばらくして薫からラインで「店の荷物の搬入口から出る」とメッセージが来た。一応これは芸能人の出待ちということになるのか。小癪な奴め。でも今日は薫の成功を喜ぼう、おもいっきり誉めよう――そう思った。
私達は店の裏手に向かう。トラックの行き来の邪魔にならないように、入口の端に立って待つ。
間もなくして薄暗い搬入口の奥から薫が歩いてきた。私達の姿をとらえると、ピースサインを力強く突き出して笑う。それは雲一つない夏の夕日よりも眩しく映った。
「――お疲れ様!」