ヒーローの南 6
薫が指をさした文章に目を通す。
『――教師が期待をかけた生徒は学業の成績を伸ばす傾向が見られたという実験結果があり、これはピグマリオン効果と呼ばれるものです。この名称はギリシャ神話のピグマリオン王の逸話に由来します。一方で、教師から期待をかけられなかった生徒は成績が伸び悩む傾向も見られました。これをゴーレム効果といい、しばしばピグマリオン効果の対義語として用いられます』
その箇所は患者に対するコミュニケーションの技術について説明しているページだった。
「お姉はピグマリオンが全然足りてない!」
「王様を野菜の摂取不足みたいに言うな」
「……あれ? そういえばこの人って池に映った自分に惚れて飛び込んじゃった人だっけ?」
「それはナルキッソス。ナルシストの語源」
ピグマリオン効果なんてものは教科書に書くまでもなく有名なのでわざわざ大学で勉強するまでもなく知っていた。そのページに付箋がついているのは隣のページ書いてあるミラー効果*1やハロー効果*2を覚えるためだ。
「とにかく、信じればピグマリオン、信じなければゴーレムなんだよ! わかった?」
「はいはい。ピグマリオン様、妹を特撮に出れるような立派なアクション女優にしてくださーい」
「もう! 真面目にやってよ!」
明日は私も休みなので、薫を那覇に連れていく予定を立てている。お互いに疲れているので、今日はさっさと寝ることにした。
つけっぱなしになっていたテレビでは県内のニュースが流れていた。
「本日昼、那覇市にある株式会社シーアル・ワンで、弁当を食べた男女六人が下痢などの症状を訴えました。保健所では集団食中毒と見て調査を――」
薫がテレビを消す。
「食中毒だって」
「これだけ暑けりゃ、保存方法に気をつけないとすぐそうなるよ」
「日差しがヤバいからね。なんかもう、暑いを通り越して痛いって感じ。空港で塗った日焼け止め、効いてたかな?」
「今ヒリヒリしてないなら効いてるでしょ?」
「あ、そっか」
一人暮らしを始めてから誰かが家に来るのは初めてだった。他愛もない話のできる誰かがいるだけで、この時間にほのかな愛おしさを感じる自分がいた。
ひとしきり話を終えて布団に横になり、電気を消す。
枕に乗せた頭を横に向けると、薫はもう寝息をたてていた。
――大学を卒業するまでの、あと四年。それが薫の役者活動に与えられた猶予だ。
芸能一家の家庭ならいざ知らず、うちはそんなものとは一切無縁の家系だ。父と母は決して無条件に薫を支援しているわけではない。将来夢破れることがあっても社会で生きていけるように、大学は必ず卒業すること、その間までに役者として仕事がとれるようにならなかったら自分には才能がなかったと潔くあきらめること――薫が高校に上がるタイミングで、父と母は薫にこの条件を承諾させたのだ。
薫の寝顔を見ながら、
(……できるわけがないでしょ。薫に芸能人なんて)
そんなことを思いながら私も眠りについた。
*1 相手と同じ会話を繰り返したり、同じ動作をすることが相手に好感を抱かせることにつながるという効果
*2 相手にわかりやすい特徴が一つでもあるとその他の評価もその特徴につられやすいという効果