うさぎおいし
菊池は興奮で顔を紅潮させていたが、久延ははぐらかす様に頭をかきながら答えた。
「残念ですが、正確にはできませんね。王国歴は天照王朝、現在の帝の一族ですね、の祖である天照帝が即位された年が王国歴元年となっています。つまり房の国の建国です。それ以前にも多くの国があり、互いに縄張り争いを繰り返しておりました。そのため、正確な資料が残っているのは、天照帝が王朝を開かれてからなのです。王朝前の資料はほぼ散逸してしまい、わずかに残っている程度です。その鮮小な西暦の資料も、かなり古いものが多く、西暦で言うと1900年代以前の物が多いのです。西暦は2000年以降も続いたようですが、特に2000年代は記録が余り残っていません」
2000年代はIT(Information Technology)の時代と騒がれ、ECOのためと称して電子化が進んだ時代だった。その代償がこれか。紙の本の発行部数が少なく質も悪くなったため、後世に残らなかったのだろう。古代エジプトのパピルスは、5000年の時を越えて伝えられたというのに、我々は200年も伝えることが叶わなかった。知識を伝えることが出来なかった時、それは文明の消滅と呼ばれる。西暦文明は自分達でその首を絞めたのだ。人間の知識とはなんと儚いものなのだろうか。
「それでも敢えてとおっしゃるなら、私見でよろしければ・・・」
「結構です!何年なんですか?」
「凡そ西暦2350~60年だと思います」
「二千三百・・・」
菊池は唖然とした。200年ぐらいだと予想していたが、300年以上だとは・・・。孤独感がヒシヒシと強くなるのが感じられた。
「なぜ、なぜ西暦は終わってしまったのですか?戦争と聞きましたが」
久延は椅子に座り直した。
「ええ。私達の調べた限りでは大きな戦争があったためのようです。それも渦動師が戦った戦争のようですね」
「渦動師達はいつ頃から歴史に現れたのですか?」
「それこそわかりません。最古の渦動師の資料は、確か西暦2032年頃のものですね。神沼という少年の特異な能力についての記録です。彼の記録から、彼が渦動師なのは疑い様もない事実です」
2032年。菊池がウェットスリープに入った翌年である。そんなに間近に渦動師が出現していたとは。そんな噂、ネットでも読んだ記憶がなかった。菊池は『アエル』こそ『AELウィルス』のことを示していると推測していた。『AEL』は医師間では『エー・イー・エル』とアルファベット読みするか、英語読みで『イール』や『エイール』と呼ばれていたので、初めて『アエル』という言葉を聞いた時にはピンとこなかった。『AEL』を『アエル』と発音するのは日本人ぐらいだろう。しかし彼らの力の源は、このウィルスに違いないと確信していた。彼らは何らかの方法でウィルスからエネルギーを取り出しているのだ。遺伝子操作を受けているのだろうか。
「それでは急性好酸球性白血病という病気を知っていますか?」
「病気?いや、知りませんね」
「2030年頃に流行った」
「ああ。大災厄の頃ですね。300年前に疫病で世界の人口が半分以下になったと記されています。それが大災厄の原因なんですか?あなたはどこでそんな知識を?」
「いえ、ちょっと・・・原因かどうかは知りません。他に大災厄について何か知ってますか?」
「余り知りませんね。大災厄後、日本は戦争に突入していますので、記録はほとんど残っていません」
「それでは、私とあなた方の外見の違いは何故ですか?昔の日本人は、みんな僕と同じ顔をしていました」
「貴方は西方人のようですが、おっしゃる通り、過去の文献でも先祖は我々よりも貴方がたに近い人種だったことが示されています。多分、混血のためだと思います。日本と呼ばれた国が、東西日本に分離していた時代、2040年頃だと考えますが、日本は他国に占領されています。どうも、この理由も渦動が絡んでいるようですが、何分資料が乏しくわかりません。その後、両国とも消滅していますから」
「結局、全て渦動、渦動!こんなになってしまったのも、全部渦動のせいだというんですか!」
菊池は久延の前のテーブルを叩いた。湯呑みが跳ねてお茶が零れた。久延は直ぐにテーブルを拭くと答えた。
「菊池さん、落ち着いて下さい。私が思うのは、これは人類の進化なのだということです。貴方も生物の進化はご存知でしょう?私は生物学者ではありませんが、歴史は、進化と破壊は双子、双頭の蛇の頭だと教えてくれています。どちらか一方だけでは生きていくどころか、移動すらできないのですよ」
菊池はソファーに倒れこんだ。多くの人々を殺し、沙耶を殺し、自分をこんな所に放り込んだ原因が進化だというのか?進化の前に古い生物は滅びろというのか?
「そんな、そんな残酷な・・・」
「残酷?何故ですか?弱者が強者に駆逐されるのは別に珍しいことではありません。生命の根源的な営みだと思います。ヒトが今迄に滅ぼした種を考えて下さい。渦動は高々霊長類の長を決めているに過ぎないのですよ」
久延は笑みを崩さずに語っていたが、菊池の『残酷』という考え方に、心から疑問を呈しているようだった。確かに老人の発言は正論だった。この地球上では、進化と絶滅は常に繰り返されてきている。特に大量絶滅の後には劇的な進化が発生している。絶滅により空いた席に座る事ができた生物がリーダーボードを握り進化していくのだ。
「僕は一体どうしたら・・・」
菊池はソファにうずくまると呆然として、質問をすることも忘れていた。
「ところで、あなたはこの世界の人間ではないでしょう?」
一瞬、場の空気が凍りついたように菊池には感じた。熱っぽい身体に強い冷感が全身を包んだ。しばらくの沈黙の後、
「なぜ?」
菊池にはそれが精一杯の返答だった。
「君の容姿、言動を鑑みれば自ずと導き出せる解だと思いますが?真から導かれし仮説は、方法に誤りがなければ必ず真です。仮説が理にかなわぬ場合は、仮説が偽りであるか、理を超えているかですよ。私は後者だと思いますが?」
「・・・」
「記録師として多くの歴史に触れてきました。歴史とは大きなウネリをもつ怪物です。君はウネリの中を必死になってもがいている虫のようだ・・・。なぜそんなにもがくのです?水渦は、もがけばもがく程深みにはまるもの。逆に流れに身を任せていれば、上手く海面に浮かぶことも多い。なぜ抗うのですか?」
「分かりません・・・。ただ一体何が起きたのか、自分の人生を狂わせたものが一体何なのか、それを知りたいだけです」
「ははは。そりゃいい。だが多くの人間にとって、自身に降り注ぐ災禍を理解することは困難ですよ。病一つとってもそうです。自分が病気になった時、なぜ病に侵されたのか理解できるのですか?所詮は偶然ではありませんか?偶然を君は理解でき、偶然に抗うことができるのですか?」
「・・・それはできません。しかし、例え何もできず、何も理解できないとしても、なんでもいいからできることを探し、自分の運命を納得しようとするのが人間ではないでしょうか?」
「ははは。なるほど。それは私には理解できませんね。かなり非合理的な思考です。適応者的なね。面白い方だ」
老人は穏やかな笑みを浮かべながら、ズーズーと茶をすすった。しかし湯のみ越しに菊池を見つめる眼光は鋭かった。
「あなたがなさりたいことが分かりませんが、もし、もっと情報が欲しいというのなら、匙の国を訪ねなさい。あそこには・・・」
「館長!」
キネリが声を荒らげた。
「おおこわ。私は事実を言っただけですよ」
久延は首を縮めながらお茶をすすった。
「ああ、そうだ。いいものがありますよ。ここには2000年代の本が少しですがあります。ただ、資料価値の高いものは厳重に保管されてますので、ここにはありませんけど。少しお待ち下さい」
久延はよっこいしょと立ち上がると奥の本棚に向かって行った。暫くすると、一冊の本を持ってきた。かなり薄い本で、表紙に『二年生の音楽』と書かれていた。菊池は表紙をめくった。紙はボロボロだが辛うじて読むことができた。『ふるさと』と書いてあり、夕暮れの山とその前に白兎の絵が描かれ、有名な詩が書いてあった。菊池は思わず歌い出した。
うさぎおいし かのやま
こぶなつりし かのかわ
ゆめはいまも めぐりて
わすれがたき ふるさと
菊池の頬に涙が流れた。彼の歌声は涙に震え、哀愁に満ちて図書室に響き渡った。




