エナタ
翌日、エナタが菊池の元を訪れた。彼は丸々と太った背の低い男で、動くたびに「ふうふう」と呻いていた。自分でも太り過ぎだと自覚していたが、体重の管理は放棄していた。
エナタは隣村の回療師である。元々房の国には医術師は少なく、医術は回療師が行っていた。エナタは幼い頃から塩土を知っており、彼の援助のお陰で都の研療院に入学出来たために、今も幕多羅の患者を診察してくれていた。塩土も村に医術所を置くことを念願にしており、彼のための医術所を造ったぐらいに入れ込んでいた。
エナタは重い体を操って菊池の前に座ると、話し始めた。
「今日は。菊池君だね?僕はエナタといいます。今日は村長から君が病気だと聞いて診察に来たんだけどいいかな?」
「ええ。よろしくお願いします」
菊池は素直に応じた。
「失礼ですが、貴方は医師なんですか?」
「医師?回療師だよ」
「回療?回療とはなんですか?」
「回療をしらないの?患者さんを診て治療することだよ」
「なるほど。所で、この辺りで疫病は流行っていませんか?熱が必ず出て、3ヶ月ぐらいで死亡するような」
エナタは鞄から道具を取り出しながら、かぶりを振った。
「そんなの聞いたことないよ」
その時エナタは妙な感覚に囚われ、首を捻った。
「あれ?なんか変だな?」
とりあえず彼は菊池の診察をした。眼瞼結膜に少し貧血が認められたが、その他には大した異常はなかった。
「念のために採血しよう」
採血の途中で、菊池が二、三の質問をしてきたが、エナタはことごとくはぐらかした。この健診を受ける前に、塩土からくれぐれも余計な話をしないように釘を刺されていたのだ。それに彼自身、菊池のことを詳しくは教えられていなかった。ただ、妙な病状の適応者がいるから見て欲しいと、塩土に請われただけだった。
エナタは一通り診察が終わるとカバンを片付け、ふうふう言いながら汗を拭き拭き帰っていった。
塩土はエナタが菊池の家から出てくると、すぐに按配を確認した。
「別に問題は無さそうだけとな。所でオヤジさん、あの男は共生者だよ」
「え!」
塩土は驚いた。
「本当か?」
「ああ。だってそばに寄ればわかるよ。間違いない。でも樹状痕がないよね」
「あの年で樹状痕のない共生者?そんなもん聞いたことが無いぞ?」
「僕だってそうさ。これって大発見なんじゃねえ?もう少し調べてみるよ。採血もしたから、生化学検査をやって顕微鏡でも見てみるよ」
彼は顕微鏡を見る仕草をした。
「大発見、大発見」
と浮かれているエナタに塩土は、
「いいな、わかってるだろうが、このことは誰にもいってはならん」
と、念を押した。
「うんうん、わかってる、わかってる」
彼は鼻歌混じりに帰っていった。
「うひょー!いるいる。なんだこりゃ!」
エナタは自宅で顕微鏡を見ながら興奮していた。彼は菊池の末梢血の染色標本を見ていた。サザキ染色と呼ばれる手法で染め上げられており(現代でいう『ギムザ染色』とほぼ同じ染色である)、青紫の細胞核の白血球細胞や赤橙の赤血球細胞が観察された。エナタは顕微鏡の標本台を、右へ左へ、尤も顕微鏡では上下左右逆の鏡面像であるが、動かした。動かしている間にピントがズレるため、その度に鏡筒を上下させてピントを合わせた。ボヤっとしていた画像が、少し鏡筒を動かすだけで、ピシッとした像を作る。視野内は、青紫の分葉核で赤橙色の顆粒を持つ細胞が、全細胞の1/3を占めていた。
「やっぱり共生者だ。だけど」
この細胞はおかしかった。大体サイズが大きすぎる。核の分葉も少しおかしいようだった。生化学検査では、軽度の炎症反応の上昇のみである。
「こいつあ、わからん」
エナタは脇に置いておいた煎餅をボリボリ食べ始めた。
夜中に塩土はうなされて眼を覚ました。全身に冷汗をかいていた。鼓動が速く高鳴り、老体は思わず胸を押さえた。隣に寝ている妻が目を覚ますと、心配そうに彼を見ていた。
「あなた、大丈夫ですか?かなりうなされていた様ですけど」
「大丈夫だ。悪かったの。お前は心配せずに寝なさい」
塩土は汗を拭いながら答えた。彼は毎晩のようにうなされていた。悪夢の内容は毎晩同じである。孫のラシアが出てくるのだ。ラシアは16歳だった。夢の中のラシアは片目が潰れていた。
「ラシア・・・」
彼は祈るしかできなかった。




