天安川の乱
王国歴197年4月。房の国は二つに割れていた。天安川の乱である。皇帝が崩御され、長男の建速(即位後は神土帝)が即位したが、それを良しとしなかった弟の覇洛(即位後は神明帝)が挙兵したのだ。兄王建速は、海軍を束ねる一流の渦動師として文武に優れ、民に恩情厚い人物として人気があり、誰の目にも妥当な継承だった。対して覇洛は、渦動口も開かず、全てにおいて兄王に劣る存在として扱われていた。また覇洛は元来臆病な気質で、兄王は愚鈍な弟を良く助けたため、兄王を慕っていた。しかし彼は天安川で2万の兵を挙兵した。この変節の理由は、
『建速による専横政治を打倒し、真に民衆のための国家を築くため』
とされているが、真実は伝えられてはいない。歴史はこの決断で間違いなく作られたが、決断の真実は歴史によってかき消されたのだ。
房軍は正規軍だけで20万は下らず、2万の寡兵では常世の駐屯師団の相手も困難だった。覇洛の指導力にも疑問があり、誰の目にも無謀な賭けに映った。案の定、初戦で大敗し、覇洛軍は敗走した。その時覇洛を匿ったのが幕多羅である。幕多羅は『放生の地』として、代々の皇帝に特別な擁護を受けている神聖な土地であり、『神人』と呼ばれる戦闘部隊を持つことも認められていた。
神人の構成人数は50~60人程度と少数で、主な任務は密偵や共生者の暗殺など、表に出ることはない仕事が大半を占めた。神人は世継ぎ制であり、親から子へ技術が伝承されていった。
覇洛が逃げ込んできた時、塩土は建速と覇洛を天秤にかけさえしなかった。このまま覇洛に手をかすフリをし、頃合いをみて建速に突き出すのが一番賢い方法なのは、火を見るよりも明らかだった。
彼が密告を心に決めていた時、庵羅から面会の申し入れがあった。庵羅は覇洛に影のように従ってきた参謀である。闇のような黒い長髪で、背が高い青年であり、唇は薄くやや神経質な印象がしたが、かなりの美形だった。左の頬に大きな傷があったが、彼の容姿を損なうものではなかった。共生者には珍しくアジア系である。20代にも見える容姿だが、落ち着き払った物腰からは、もっと上であるのは確実だった。目元は穏やかだが、瞳の奥には異質な光が宿っていた。塩土は庵羅の前で凧型を作ってから跪いた。
「お呼びでしょうか、庵羅さま」
塩土は尋ねた。
「膝を立ててください。こちらは貴方に庇護されている身ですから。所で、腹の内はそろそろ決まったのですか?」
塩土は驚き、わずかだが表情に出してしまった。
「な、何を・・・」
「ははは。当然貴方の天秤の傾きがどちらに向いているかですよ」
青年は愉快そうに笑った。
「ご冗談を。我々は政治的なことには関与しないことが信条です」
青年の眼が鋭くなった。
「そうですか。もしそれが本当なら、貴方は無能ということになり、私が話す価値は無くなります。でも、貴方がそんな無価値の人間とは思えません」
庵羅は長い髪を弄りながら話していた。塩土にはこの青年の考えが読めなかった。表情は穏やかだったが、眼には微かに深い鋭さを秘めている。
この男は要注意人物だ。塩土は直感でそう認識していた。
「単刀直入に言いましょう。貴方は我々側につきなさい。それが幕多羅にとって最も利率のいい賭博です」
塩土は一瞬驚いたが、今度は顔には出さなかった。所詮この男も同じか。こいつらは民衆を力でねじ伏せようとするのだ。
「ははは。参考までにお聞きしたいのですが、なぜ貴方がたの方が利率が高いのですかの?」
青年は右の人差し指を立てると、楽しそうに話し始めた。
「まず第一に、ここでのトラブルがない。私は貴方が覇洛を見限り、建速に取り入ろうとしていることを知っています。当然暴れますね」
「いや、そんな・・・」
老人が弁解しようとしたが、青年は二本目の指を立てた。
「次にリスクが少ない。私達に加担してもバレることはない。大願成就せぬ暁には、私や覇洛は生きてはおりません。それに、もし仮にバレたとしても、問題はありません」
「なぜ?」
「相手のことを褒めるのも何ですが、建速はその程度のことで、大きな咎は課さない男です。逆に覇洛は、小さな咎で死を命ずる男です。困ったもんですが」
青年は頭をかいた。この男はなんて発言をするのだ。試しているのか?
「貴方の今のご発言は、不敬罪に当たりますぞ!」
老人は震える指を青年に指した。青年は本当に困ったといった顔をした。
「もう。僕の話の腰を折らないでください。私は一応、貴方を目上の人として扱っているのですよ?覇洛は私を不敬罪などで捕まえたりはしません。少なくとも今は。彼は私の必要性を心底認識していますから」
そして彼は3本目の指を立てた。
「さて、最後に、覇洛に加担した方が得るものが大きい。もし覇洛を建速に引き渡したとすると、良くて恩賞でしょう。だが、己が身に危機が降りかかっている今は、最大の交渉時期です。これを利用しない手はないでしょう?」
塩土は庵羅に興味を持った。覇洛は愚鈍であるが、この男は普通ではない。しかし、この発言には大きな問題がある。塩土はその点を追求した。
「貴方はこの戦いに勝つ自信はあるのですか?今の話は全て貴方がたが勝利して成り立つ論法ではありませんか?」
「流石に老人。いい所をついてきますね。ですが負けても建速が幕多羅を糾弾しないというのは正しいと思いますがね。まあ、この世に確実などと言うものはありませんが、こと、この争いに関しては覇洛が勝ちます」
青年はアッサリと答えた。まるで水が上から下に流れるが如く、森羅万象の真実のように。
「なぜ?どのようにして?貴方がたに兵はないでしょう?」
「ははは。私はね、この世界を試したいのです。一体どこまで歪みを受け入れるのかを。でないと、結局・・・まあ、いいでしょう。ですが少し遊びすぎました。この後は真面目にやります」
この男は何の話をしているのだ?
気が触れているのか?
だが青年の眼光は老人の心を鷲掴みにしていた。抗うことを完全に拒否するような光に満ちていた。塩土はこの男に賭けてみた。まるでそうなることが必然、予定調和のように。
そして幕多羅は神明帝を助けて『借り』を作った。幕多羅が建速軍に包囲された際にも神明帝を匿い、彼らが再起するための資金の援助も行った。そして青年の話したことが現実となった。建速は一族郎党ことごとく処刑され、神明帝が即位した。こうして神土帝は天照王朝で最も短命な王として記録された。
ここで興味深いのは、共生者の歴史認識である。房の国の歴史をまとめている史録院は、現帝に逆らった反逆者である神土帝についてもしっかり記録を残した。更に、この『天安川の乱』を『天安川の変』とはしなかった。俗説だが、『乱』は権力者に挑んで負けた戦い、『変』は権力者に挑んで勝利した戦いと言われている。しかし記録師達は反乱は全て『乱』で統一しており、戦闘を強調したい場合は『戦い』と記録した。
権力の簒奪に協力した幕多羅は、税の優遇や自治権、神人の黙認など多くの利益を得たが、大願の『生口の契』の解消には至ってはいない。食えない男だったと言うことだ。




