地獄
二人はレイヨを先頭にダクトを進んだ。ダクトは四つん這いでも厳しい程のスペースしかなく、辛うじて肘が伸ばせるだけの高さしかなかったため、二人は這うように進むしかなかった。
「タカヨシ、前見ちゃ嫌だよ。絶対見ないでね」
「ああ、分かってるよ。それに薄暗いから大丈夫だよ」
前を見ると、ぼんやりだが彼女の下着が見えていた。彼はなるべく見ないように、下を向きながら進んでいった。
「腕は大丈夫?」
「ええ。なんとか」
怪我した腕で這って進むのはかなりきついはずだが、彼女は腕を庇うようなそぶりは無かった。腕はもう大丈夫なようだ。
しばらく進むと行き止まりになった。四角い格子がはめ込まれているようだった。
「タカヨシ、行き止まりだよ」
「どれ、見せて」
菊池がそちらを見ようとすると、彼女が騒ぎだした。
「キャー!だめ、だめ。見ちゃだめって言ってるでしょ!」
彼女は片手でスカートの裾を押さえ、お尻を隠すような動作をした。
「でも、見ないと分からないよ。足を伸ばして、なるべく身体を床にくっつけて低くしてよ。そうすれば白い下着も見えないよ」
レイヨは言われた通りに身体をのばして床に這いつくばった。それでも菊池の身体が通るのにはきつかった。彼はゆっくりと彼女の上に覆い被さるように前に進んだ。
「ごめん。すこし窮屈だけど我慢して」
「あ!」
彼の顔が腰に近づいたとき、不意に彼女の腰が上がり、彼は頭を思いっきり天井にぶつけた。
「いてて!なんだよ!危ないじゃ・・・」
「なんで白って知ってるのよ!」
彼女が後ろを振り向いた。
「何が?」
「何がじゃない!私の下着の色!見たんでしょ!」
「おい、何言ってんだよ、こんな時に」
「見たんでしょ!」
「ああ、でも少しだけだよ。本当に少しだけ」
「ひどい・・・お嫁さんに行けない」
彼女は泣き始めた。
「ごめん、ごめん。本当に少ししか見てないから。大丈夫だから。約束するから」
「本当?」
「ああ。本当だよ。それよりも早く格子を見せてよ」
彼女は機嫌を治したのか、ニコニコ微笑むと、再び姿勢を低くした。
「どうぞ、タカヨシ」
「本当に・・・頼むよ」
菊池はゆっくりと彼女の上に乗っかっていった。彼女の肌のぬくもりが服越しに彼に直接伝わってきた。彼女の体臭も彼の男をくすぐるには十分だったが、必死に欲望に抵抗した。
彼は、彼女の肩越しに格子を見た。UPLA(Ultra Low Penetration Air Filter)フィルターである。クリーンルームに使用されるフィルターで、HEPA(High Efficiency Particulate Air Filter)フィルターよりも集塵力を強化したフィルターだ。フィルター自体は脆いが、それを補強している格子がやっかいだ。しかし幸いなことに、格子は溶接ではなくネジ留めだった。
「これなら大丈夫だ。ネジを外せばいける」
その時だった。
「あ、いや・・・息・・・だ、だめ・・・」
菊池の下から艶かしい声が聞こえていた。彼の息が彼女の耳に吹きかかっていたようだ。彼女は身をよじらせながら、彼の息から避けようと蠢いていた。彼の男は最後の砦を破壊され、その存在感を彼女に示そうとしていた。彼女もお尻に当たる違和感に気がつき悲鳴をあげた。
「きゃー!いや、いや!」
彼女は菊池から逃れようと、頭突きをしてきた。
「ぐあ!」
彼女の後頭部が彼の鼻に激突した。彼は急いで後ろに下がった。
「レイヨ!ごめん。そんなつもりじゃなかったんだ。君が変な声を出すからつい・・・」
「いや、タカヨシなんて知らない!」
「そんな。本当にごめん。もう絶対にそんな気持ちにならないから。本当に全然違うんだ」
菊池が懸命に謝罪すると、彼女もゆっくりと落ち着いてきた。まさか、彼も換気ダクトの中で女の子に30分以上も土下座する事になるとは考えても見なかったが。
「いい、今度変な事したら、絶交だよ」
「うん。絶対しない。だからもう一度やらせて」
彼は袋から工具を取り出して、再びレイヨの上に乗っかった。
( a + b )2 = a2 + 2ab + b2、( a - b )2 = a2 - 2ab + b2・・・
やはり因数分解だよな。
まさかこの年で、頭の中で因数分解の公式を唱えてリピドーを封じ込めなくてはならないとは。彼は彼女の肩越しに腕をのばして格子のねじを外していく。
「ふう・・はあ、お、重い・・・は・・・早くして・・・我慢できない」
レイヨは下でふうふう言っている。
わざとか?
この娘は僕をからかっているのではないのか?
因数分解はだめだ。次は三角関数でいこう。
彼はこの世界に来て初めての地獄を味わっていた。




