メス
彼らはウェットスリープ室の奥の扉を調べ始めた。扉は電動スライド式だが壊れているようで、菊池がフットスイッチに足を入れても開かなかった。扉の脇には赤い四角で囲まれた非常用の開閉ノブがあり、彼はその蓋を開けるとノブを下に引いた。微かな金属音がしただけだったが、二人で扉を引っ張ると、なんとか開けることができた。中は真っ暗だったが、壁に並んだスイッチを片っ端から押すと、部屋に電気が灯って内部を顕にした。部屋の中央に手術台と無影灯が設置され、周囲にはカートや沢山のモニター類が並べられていた。また壁には様々な器具や薬剤が整然と置かれ、ここが生物関係の処置室であることがわかった。
備品のほとんどが残され、整然としまわれていた。特にステンレスやチタン、ガラスや陶器製のものは新品のようだった。菊池は自分の商売道具だったメスを見つめ、ディスポーザブルの刃を先端に取り付けてから手に取って握ってみた。冷たい金属の感触が手から伝わり、不思議と彼の心を落ち着かせた。彼がオペの時に使っていたメーカーとは異なるが、手には慣れ親しんだ感覚だった。彼はそばにあった緑色の小さな術布にメスを包むと、ズボンのポケットに入れた。
「メスをポケットなんかに入れたら、刺さるかな」
メス(Mes)が英語でないことは有名な話である。元はオランダ語で『ナイフ』の意味だ。英語ではスカルペル(Scalpel)またはランセット(Lancet)と呼ばれる。材質はステンレスまたはカーボンが主流であり、長期間劣化する事は無い。
プラスチックの器具もほぼ原型を留めていた。紫外線が入ってこなかったからだろう。
プラスチックはとても安定した物質で、現実的な長さでは、ほぼ生分解されない。紫外線はプラスチックのポリマー鎖を断ち切り短くすることができるので、プラスチックの崩壊を助けるが、崩壊するだけで生分解するわけではない。人間が作り出したプラスチックは、2000年代初頭で50億トンを超えているが、その全てが全く分解されないまま地表に残存しているのだ。
薬剤は殆ど使い物にはなりそうもなかった。薬剤を包むポリエチレンバックが変質し、中の薬剤も、乾燥してカラになっているか、結晶化していた。ガラス瓶に入っている粉状の抗生剤なども、見た目は使えそうだが、包装は裂けており、多分死活化しているだろう。
この部屋はウェットスリープ室へ患者が入室する前と覚醒後の処置・観察室の役目を担っていたようだ。備え付けの端末は死んでおり、手がかりになりそうなものは見つからなかった。
彼らはウェットスリープ室に戻って一休みすると、レイヨが入って来た分厚い扉から外に出て、他の部屋の捜索を始めた。どの部屋にも携帯端末(MT)やコンピューターはあったが、電化製品は軒並み使えなかった。紙媒体はかなり少なく、研究や疾患に関する資料も殆ど認められなかった。備品も殆どが劣化しており、発煙筒すらまともに発火しなかった。病院や生物関係の研究室は感染対策の観点から、ディスポーザブルな備品が多かったことも関係していた。長期間使用することを想定していないのだ。しかし丈夫そうな袋と工具セットを見つけることができた。菊池は袋を肩に担ぎ、わずかな書類や使えそうな物を入れていった。
幾つかの机には、プラスチック製の立方体が置いてあった。様々なメーカーが製造しているようで、デザインは異なっていたが、全ての表面には『HMD』の文字とシンボルが印字されていた。HMDはデーターの3D化により記憶容量を増加させたデバイスである。正確にはデーター圧縮技術だが、それを利用したデバイスを全てHMDと呼んでいた。彼がいた時代でも世の中に出回り始めていたが、彼の知っているHMDとは外観や大きさがかなり異なっていた。
しかしHMDを幾つ見つけようと、端末が動かなければ意味は無い。MASAMIなどメインサーバーに繋がる端末には、外部デバイスは使えないように物理的な封鎖がされている。ウィルス対策だ。外部デバイスが使える端末で生きているものは見つからなかった。しかし使えそうなHMDは袋に入れておく事にした。
彼等は数時間の捜索後、ウェットスリープ室に戻った。まだミイラの臭いが残ってはいたが、彼等にとって、特に菊池にとっては、ここが最も安心できる場所に思えた。
「疲れた」
菊池はかなり疲労し、足が棒のようだった。彼はふらつきながら壁際に戻って座り込むと、彼女も彼のそばに座った。そして戦利品を肩の袋から取り出した。いくつかの書類、工具、メスと剪刀、鑷子、鉗子などを数本、筆記用具、見込みのありそうなHMDを数個。とてもわずかな収穫だったが、彼にとっては自分の居場所を作る重要な足がかりに思えた。




