渦動師
ここ房の国の北西にある坂東湖は、周囲長10キロメートル程度の、南北にやや細長い湖である。毛の国との国境に当たり、政治的に微妙な土地、いわゆる緩衝地帯であった。ここでの軍事活動は、毛の国との緊張の原因となる可能性が高い。しかし今回の墮人鬼狩りは、テルネら房軍渦動師が、毛の国の許可を取って送り込まれた。この辺りで軍、それも渦動師を、監視も付けずに自由にさせている毛の国の対応はかなり異例である。
異例と言えば、この部隊構成も異例だった。
今回編成された猟人部隊は、隊長と副官を含めると総勢14名。『勢子』を除けば全員が渦動師で、歩兵の援護もない。渦動師だけで隊を組むなど、少なくともテルネは聞いたことがなかった。
更に14人もである。
通常は1個中隊に4~5人の渦動師が付けられる程度だ。
共生者は大勢いるが、渦動師は貴重なのだ。
それに渦動は隙が大きく、渦動だけでは戦になどならない。援護が無ければ、結局渦動師も歩兵のように剣を振って戦うしかなくなる。たかが1匹の野生動物を、わざわざ軍が、それもこれほど大人数の渦動師を集めて狩る必要があるのだろうか。
指揮官についても噂ばかりで、少なくとも彼女の肩書では、正体は何も分からなかった。
この猟人部隊の隊長はコウラと言った。彼は皮の仮面を被っており、真紅のマントを羽織っていた。顔に大きな傷があり、それを隠すために仮面を付けているとの噂である。面の奥から発せられるくぐもった声は、表情が読めないことも相俟って一層不気味であった。
この人物について良くは知らなかったが、皇帝に気に入られた渦動師で、所謂『腰巾着』の一人であるらしい。『研療院』か『回学院』に関係しているとの噂もある。一応階級は大揮(現在の少佐)であるが軍内では無名で、これといった戦歴も聞こえてこない。戦果を重んじる房軍としては異例の人事である。
気をつけないと全滅しかねない。
彼女は新米指揮官によって犬死にした兵士達を数多く見てきた。
自分は大丈夫だ。今まで上手くやってきたし、今回も上手くやれる。
テルネは森の中を走りながら、自分に言い聞かせた。
渦動師。
この世界を支配する『アエル』という体内エネルギーを利用して戦うことがてきる戦士の総称である。アエルを持つ人々は『共生者』と呼ばれ、渦動師は共生者から僅かに産み出される。アエルを持たない人々は『適応者』と呼ばれ、人口の1割に満たず、彼らの多くは共生者達に支配されていた。
彼女は、渦動師として軍属となり5年になる。これまでに蛮族狩りなど多くの『仕事』をこなしてきた。生命の危険も多々あったが、己の『力』だけで乗り越えてきた。特に彼女は剣技に優れ、それは彼女の生い立ちに関係があった。これまで戦闘で恐怖を感じたことはなく、自分の『仕事』に迷いもなかった。
だが墮人鬼と闘うのは初めてで、見たことすらない。
作戦前にコウラから状況説明を受け大体のことは学んだが、指揮官の話も記録を元にしたもので、実際の所は誰にも分からないのだ。
墮人鬼が跋扈していたのは10年も前のことで、その後は公式記録に記載はない。奴らは公式には絶滅したことになっていた。つまり有効な攻撃方法がなんなのかは、直に戦ってみなければ分からないということだ。
墮人鬼は山間部に住んでいた野獣である。
『鬼』という名から分かる通り、二足歩行をする獣で、遠目からは人間と間違えられることがあった。数種が確認されているが、武器は爪で、種類によっては右手に大きな『鎌』を持っている。体毛に覆われた筋肉から繰り出される攻撃は、人間をまっ二つにする破壊力があるという。
しかし前述したとおり、10年前に大規模な墮人鬼掃討が行われ、絶滅したと言われていた。
何故こんな所に、まるで湧いたように出現したのだ?
なぜ毛の国は、緩衝地帯への我が国の渦動師派遣を容認したのか?
何故渦動師だけなのか?
何故、何故・・・。
テルネは、足は止めずに自分の両頬を手のひらで叩いた。
「いけない、いけない」
彼女は頭を左右に振った。
さっきから何を考えているんだ?
兵士は余計な疑問を持ってはいけない。
こんな気持ちは渦動師になってから初めてだった。
これは命取りだ。