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共生世界  作者: 舞平 旭
冒涜的手術
37/179

シコー

「ドンドンドン」


扉が力強く叩かれた。


「なんだ、こんな時間に」


シコーは寝ぼけ眼をこすりながら、扉に向かった。だが迷惑そうには見えない。歩みを一歩を進める毎に、身体が臨戦態勢になっていく。これから診る急患に対し、使命感を持っているのだ。医術所を開設していると、時間外の急患には慣れっこになってくる。そして、これが自分の仕事なのだ。


彼が房の国の双神村ふたがみむらで医術所を開設して5年が経っていた。若くして技術は国一番と誉れ高く、遠方からも患者がやってくる。房の国の回療師から、お抱え医術師として来ないか、との誘いを受けることも度々あった。宮廷回術師のお抱えになれば、一生食い扶持ぶちには困らない。だがシコーはアッサリと断って来た。自分たち適応者に対する回療師達の扱いの酷さは、房軍に従軍していた時に十分身にしみていたし、適応者の医術を自分が担っていきたい、そんな気概も彼にはあった。そのためには宮廷に入る訳にはいかなかった。



扉を開けると、そこには房軍の茜色の軍服を着た男女が立っており、男の背中には少年が背負われていた。男が皮の仮面をすっぽりと被っているのに一瞬驚いたが、シコーはすぐに背負われた少年をみた。13~14歳ぐらいの少年で、左腕に包帯が巻かれ血が滲んでいた。


「取り敢えず中に」


シコーは中に彼らをうながすと、ベッドに少年を横たえさせた。首に樹状痕はなく、少年は適応者だった。包帯からはゆっくりと赤いシミが広がっているのが見て取れた。


これは動脈性出血か?


シコーの眼差しが険しくなった。

少年の顔は蒼白で、唇は紫色になり、眼は虚ろだった。チアノーゼが出ている。これは、かなりの量の出血があったことが疑われる身体症状だ。

包帯より中枢側が布で縛られていて、駆血帯代りに使用されていた。重度の外傷の時の治療として駆血は有効であるが、長時間の阻血は腕が腐ってしまう可能性があり、下手に行うとかえって危険である。腕の状態をみると、数分毎に緩めたのだろう、腕の低酸素障害は避けられていた。


「ここをしっかり圧迫して!」


彼は駆血を外すと、仮面の男に包帯の上から傷口を圧迫させた。そして白衣のポケットから聴診器を取り出すと、少年の診察を始めた。聴診器はラッパ型の古いタイプのもので、ゴムなどがかなり痛んでいたが、父からもらった大切な商売道具だった。

少年の心拍は弱く、軽度だが収縮期雑音が聴取された。血圧は80/50と低下している。

ショック状態だ。まず輸液が必要だと彼は診断した。



シコーは電解質輸液の点滴の準備を始めた。


ヒトの体は水で満たされている。大人で体重の60~65%、子供で75%とされている体液は、大きく細胞内液と細胞外液に分けられる。輸液は細胞外液への補給であり、成分によっては細胞内液への補充も間接的に可能である。

細胞外液の代表格が血液で、輸液は血管内に投与されると血液と混ざることになる。そのため、輸液は血液と等浸透圧にすることが重要である。浸透圧が違う輸液を投与すると、血液の血球は破裂してしまい、溶血を起こして命も危ない。つまりただの水は輸液には使えないのだ。最も基本的な電解質はナトリウムである。生理食塩水とは0.9%の食塩水、つまりヒトの細胞外液と等張の食塩水のことで、これか輸液の基本となる。


この時シコーが用意した点滴は、生理食塩水にカルシウムとカリウムという、人間の細胞にとって大切な電解質を混ぜたものだった。具体的には、塩化ナトリウム86g、塩化カルシウム3.3gおよび塩化カリウム3gを原聖水10Lに混和したものだ。この輸液は西暦世界では『リンゲル液』と呼ばれる。イギリスの生理学者シドニー・リンガーが1882年に発表したものだ。生理食塩水にカリウムとカルシウムを加え、より生理的に調整したものである。ただし、大量に輸液するとクロール中毒を起こすことがわかっており、西暦世界ではクロールを乳酸で中和した『乳酸リンゲル液』が主流となっている。

原聖水は各種聖水の元になる精製水で、アエルにより作成される。アエルによる錬金術法の一種だ。この水は超純水で、腐敗することもない。シコーは懇意の回術師から安く分けてもらっていた。



彼は作っておいたリンゲル液のボトルにゴム管を差し込み、針を付けた後に点滴回路内の空気を抜いた。そして少年の左前腕の橈骨皮静脈に針を刺して点滴のルートを確保すると、全開で輸液を落とし始めた。

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