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共生世界  作者: 舞平 旭
西暦世界
34/179

結婚式

 南横浜大学付属病院は感染症指定医療機関のため、患者の受入れを早期から行ってきたが、隔離病棟は直ぐにパンクし、一般B棟を隔離病棟としていた。しかし一般病棟には陰圧室もなく、国からHEPAフィルター付きの空気清浄機すら数機しか回して貰えない状況下では、隔離などと呼べる環境の構築は望むべくもなかった。

 横浜市は病院への患者の殺到を避けるため、全ての患者の無許可での病院内立ち入りを禁止し、院外に災害時緊急医療所を設置させた。

 医療スタッフはマスクやゴーグルなど重装備の個人用防護服(PPE:personal protective equipment)で対応せねばならず、疲労は計り知れなかった。更に医療スタッフもAELで続々と倒れ、健康なスタッフも半分は職場放棄してしまったため、残りのスタッフは24時間体制で治療にあたらなくてはならなかった。

 すでにトリアージは崩壊し、庭には増え続ける患者が至る所に座り込んでいた。


 日本はパニックになっていた。昨日は東京各所でコンビニなどへの押し込みが発生。強姦や殺人事件が多発した。内閣総理大臣は緊急事態宣言を行い、国防軍が国会議事堂を中心に東京各所に配備され、事実上1世紀ぶり、戦後発の戒厳下となった。



 そして菊池もこの喧騒の中にいた。日常、いや、いつ終わるかしれない非日常の仕事をこなし、時間があると沙耶の病室まで足を運んだ。沙耶は菊池の許嫁で、初期の感染者だったことから、病院の隔離室に収容されていた。隔離室に入るには、頭から足までディスポーザブルの服を被り、マスクとゴーグルを付けなければならない。沙耶は発熱に苦しみ、体重が8キロも落ちていた。ガラス越しの彼女の頬は窪み、あのしっとりとした唇は砂漠のようにカサカサだった。貧血は彼女の皮膚色を死人のように青く変え、時々苦しそうに胸を押さえた。


「沙耶、気分はどうたい?」


 菊池はマスク越しに尋ねた。


「大丈夫よ、たかちゃん。なんか、最近は気分がだいぶいいの」


 彼女はマスクをした顔で微笑んだ。無理をしているのは一目瞭然だ。


「昨日、田中の奴がさ。田中会ったことあるよね?あいつが酔っ払って国防軍の戦車に立ちションしてさ。バカだから逃げたらしいん・・・」


 たわいもない、内容もない会話が続く。二人はまるで何もなかったかのように笑い合った。すると突然沙耶が真顔で尋ねてきた。


「たかちゃん。私・・・死ぬんでしょ?」


 菊池は狼狽えてシドロモドロだった。


「し、死んだりしないさ。何言ってるんだよ。僕は医者だぜ。君の病気は理解しているんだ。医者の言うことが聞けないのかい?」


「・・・いいの。わかるよ。たかちゃんは・・・嘘が下手だから」


 彼女は微笑んだ。


 そして彼は落涙した。


 悲しみを胸に秘めるということは、心という水槽の中に、毎日1滴ずつ毒を垂らされているようなものだ。かき出す柄杓が見つからなければ、毒はドンドン濃くなっていく。彼の心の中は毒で澱みきっていたのだ。辛うじて耐えてきたのは、彼女を不安にさせないという気持ちだけだった。

 今、彼女の口から『死』について笑顔で語られたことで、彼の濁った水槽は決壊した。感情という毒水がせきを切ったように流れ始めた。

 声はたてなかったが、涙が止めどもなく溢れてきた。しかし防護服の彼はそれを拭う術すらなかった。

 彼女は彼を抱きしめると、防護服の上から頭を優しく撫で始めた。


「よしよし、泣き虫さん。心配しないで。私はね、大丈夫よ。だけど、私が死んだらお願いがあるの」


「死んだり・・・しないから、そんな願いは聞けないよ」


 彼の言葉は震えていた。


「いいから、ちゃんと聞いて。私が死んだら私は貴方の心の中に生まれ変わりたいの。分かる?貴方の心の一番大切な場所を私に貸して欲しいの」


 菊池には彼女の言っている意味が理解できなかった。


「どういうこと?」


「いいから。約束よ。そのうちにわかる日がくるよ。貴方が理解した時、私は本当に貴方と一緒になれると思う。そう考えたら、そう決めたら、私ね、怖くなくなったの」


 沙耶は楽しそうに答えた。



 毎日多くの患者の問合せや受診があったが、南横浜大学付属病院は設置した救護施設も満床で、新規患者の受け入れは不可能となっていた。いや既に日本中の病院が機能不全に陥っていたのだ。実際、ウィルス感染症には対処療法しかないのだから、入院しても電解質輸液ぐらいしかない。政府は、広報車やテレビ、ネットなどを通じて盛んに自宅待機を促していた。しかし政府が国民のための行なっている対策は少なく、経口補水液を無償で提供する程度だったが、それすらも滞っていた。病院や政府機関は防護服に身を固めた警察や国防軍により守られ、進入を試みる国民との間で小競り合いがつづいていた。



 菊池は沙耶と結婚式を挙げることにした。


 残念だが彼女はもう長くはない。


 うっ血性心不全を呈しており、肺水腫から血中酸素濃度が低下してきていた。マスクで5リットル/分の酸素を投与されていたが、末梢血酸素飽和度(SPO2)は90%前半に下がってきていた。


 菊池は担当医、両親に相談し、隔離室で式を決行することにした。


 沙耶が注文していたウェディングドレスは、母親と看護師が着せ、菊池は防護服の下にタキシードを着た。ベッドの上で手を組み、音楽プレーヤーから流したウェディングマーチの中、指輪の交換をし、サージカルマスク越しの誓いのキスをした。



「たかちゃん、私、幸せだよ」


 沙耶の目から涙が零れた。



 翌日、沙耶は死んだ。


 ****


 その時、扉は開かれた。自分を水の中から救い出してくれた柔らかい腕。マスクとゴーグルを外してもらったが、視力が回復していないため何も見えない。


「沙耶。ああ、君が助けてくれるんだね。なんだか悪い夢を見ていたよ。苦しいよ」


 彼は沙耶の肩を借りて装置から出ようとした。しかし足に力が入らず、沙耶と一緒に倒れこんでしまった。眼が徐々に慣れてくると、彼の傍には見知らぬ少女が倒れていた。

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