菊池
「ふう、それではこれで終わります。お疲れ様でした。血圧が少し気になるから輸液早めといて。輸血は電カルに入れてあるけど、病室に帰ったらストックから4単位ね。4時間でいこう」
菊池は術野から手を下ろし、南横浜大学付属病院第一手術室の時計で時間を確認した。17時20分。予定より20分は早い。ICUで患者の状態をチェックしても、沙耶との約束の時間には十分な余裕があった。
ロッカーでスクラブを脱いで白衣に着替えていると、同期の田中がやってきて、隣で着替え始めた。彼も別のオペが終わった所のようだ。
「あれ、もう終わってんの?相変わらず速いなぁ」
そう軽口を言うと菊池の肩を叩いた。
「本当、おまえ凄いな。来年、吉田准教授が出た後のポストは、お前に決まりだな」
「そんなことないよ。まだ論文もアクセプトされてないし」
しかし田中は、菊池の話には耳も傾けない。
「あーあ。俺も頑張んないとやべーな。来年は出張要員かもな。・・・そうだ、今度のAGA(アメリカ消化器病学会)行くんだろ?向こうで時間ある?ここ、なかなかいい店みたいでさ。行こうぜ。お前、付き合い悪いから。たまにはいいだろ?」
田中が病院から支給されている携帯端末(MT)のモニターを引き伸ばして、ネットのムービーを見せてくる。若い金髪女性が、半裸でセクシーなダンスを踊っている映像だった。半透明のフレキシブル・モニターが、無理な引き伸ばしでゆがんでいた。
「おいおい、田中。こんな所でやめろよ。院内MT壊れるぞ。それに、それ院長がモニターしてるって話だぜ」
「え、まじ?」
院内MTは連絡のために病院が各医師に支給している。不思議なことに、普通に売っているMTなのに、『院内』と付けるだけで、なぜか値段は倍になる。一応、医療機器との混線が起きないことをテストしているのだろうが。
菊池は田中に挨拶するとロッカーを出て行った。彼は今夜の沙耶とのデートのことしか頭になかった。
MTは多くの種類があるが、腕に着ける物か手で持つ物が主流で、それほど奇抜なデザインではなかった。
携帯端末は2010年代が最も進歩したが、それ以降はあまり進歩はしていない。機器は技術革新があった後は、使用者の気持ちに合わせて改良される。ヒトの身体は進化していないために、使いやすい形や使い方は決まってくるのである。
MTはクラウド・コンピューティングであるため、記憶媒体は小さなメモリーで良い。バッテリーも生体発電を利用しているため、作ろうと思えば、楊子サイズでも、またどんな形にも作れる。しかし扱い憎いために主流となることはない。
一時、ウェアラブル端末として眼鏡型が流行ったが、今では飛行機など公共の場所と一部のニッチのみが使用しているに過ぎない。あんな熱くるしくて邪魔なものを年中付けている奴の気が知れないし、幾らプログラムで補正できると言っても、老眼・難聴で、認知能力の低下した高齢者には向かなかった。この時代、高齢者に使えない物がヒットすることはないのだ。
VR(仮装現実)やAR(拡張現実)もCMや教育、コミュニケーション・ツールとして発展はしていたが、それぞれの域を抜け出せてはいなかった。
結局はフレキシブル・モニターや短焦点プロジェクターなどの表示装置の革新があり、セルロース・ナノファイバーによる軽量・コンパクトさが増したMTが中心となっている。
モニターはフレキシブルが主流で薄くて半透明なものが多い。それを細長い本体から、必要な分だけ引き出して使うのだ。
ホロ技術を使い、空間に映し出すホロモニターも多い。ホロモニターの難点は、文字入力が音声入力な点で、若者はフレキシブルモニターのデバイスを好んで使った。
文字入力も進歩していた。音声入力はAIの進歩で日本語の認識率はほぼ100%(人間が認識できる範囲内で)である。しかし結局携帯端末では流行らず、未だ手入力が中心だった。街中で独り言を大声で発するのが当たり前になることはなかったからだ。
その代わりにAIが進歩し、端末の行動予測が進んでいった。持ち主の行動を予測して、仕事のパターンや朝起きる時間など様々な情報からAIが先読みしていくのだ。起動と共にメールしたい相手へのメールが大体の文章込みで用意されている。つまり入力機能の進化は、『入力のし易さ』から『入力の排除』へ変わったのである。
便利な機能だが、菊池には機械に支配されているようで好きではなかった。機械に支配されるなど愚かなことだ。人には行動の目的があり、その目的の達成のために機械を使うのであり、機械を使うことが目的ではないのだから。
支配と従属。
人は往々にして他人、特に強い者に依存したいと考える傾向があるのは事実である。MTもそうだが、彼の所属する医療業界が最も顕著な分野で、患者は医者に病気のことを任せて、安心して酒を飲む。臨床経験よりも研究実績でなった教授達の診察を喜んで、時には金を払ってまで受診したがる。
愚かなことだ。
権威という目に見えない化け物に支配されているのだ。他人を支配したいと思いながらも、強者に支配されて安心を得る。
この『支配非支配欲の矛盾』が人間なのだろう。
人は知らず知らずのうちに何かに支配されているのだ。例えそれが心を持たないモノだったとしても・・・。




