イワレ
少年は獣の異形の姿から眼が離せなくなっていた。妙に長く前に伸ばされた首から突き出た顔は、眼を見開いたまま眼前を凝視していた。首の根元には少年のナイフが、聖剣の如く真っ直ぐに突き刺さっていた。
「ナイフ抜けるかな」
少年が獣の首に手を回そうとしたその時、暗黒の彫像は眼球をぐるりと一周回した後、狂ったような咆哮をあげた。
「うわーっ!」
少年は慌てて尻餅をつき、叫ぶ獣を見上げた。獣はナイフを一気に引き抜いた。鮮血が傷口からほとばしる。
「なぜ?」
少年はあわてて獣から逃げた。しかし獣の反応は早く、一気に少年との距離を詰めると、巨大な左腕でなぎ払った。少年は回転しながら宙を舞い、大きな樹の幹に叩きつけられ、一瞬で意識が消失した。
のたうち回る墮人鬼は、狂気に両眼を赤黒く滲ませながら少年に近づいたが、動かなくなった獲物をジロジロと見回すだけで触れようとはしなかった。
戸惑っていたのだ。
獣の野性が、この少年が危険であると告げていたが、見た目はご馳走である。さっきの少女の肉の味が忘れられなかった。
墮人鬼は生死を確かめるかのように、少年の左腕を鎌で斬りつけた。鎌は少年の左上腕に深い傷を作った。少年は苦痛で覚醒したが、自分の置かれている状況を一瞬で把握すると、『死んだふり』をした。苦痛は限界を超えたものだったが、彼は強い意志で父の教えを守ったのだ。
「いいか、戦う術がないのに森主に遭遇したら、動いてはダメだ」
父は猟りの時にイワレに言った。少し前に森主をやり過ごした所だった。
「動かないって、今みたいに?」
イワレは尋ねた。
「ああ。隠れおおせればいいがな」
「見つかっちゃったら、死んだふりでもすればいいの?」
「まあ、死んだふりも有効な場合はある。奴らはよほど腹が減っていない限り、その場で獲物を食うことはない。狩場は危険であることを知っているからだ。自分を『食糧』と思わせることができれば、チャンスはある」
少年の左腕には大きな切創ができ、大量の血液が噴き出した。上腕動脈を切断されたのだろう。このまま止血しなければ、彼は出血多量でどのみち死亡する。
流血を見た獣は両腕を持ち上げると、少年に向けて鎌を振るった。
その時、墮人鬼の背後から声が発せられた。
「もう十分だよ」
コウラが発した声に、獣は少年への攻撃を、既の所でピタリと止めた。そしてコウラに向き直ると、その場に座り込んだ。まるで飼い犬のように。
「本当に今までありがとう。でも、もういいんだよ。私は懸命に君の命を伸ばそうと努力してきた。そのために墮人鬼の研究をしたんだよ。君のおかげで研究が凄く進んで、自分でも思わぬ副産物も手に入れることができた。でも、もうこれが限界だ。これ以上延命はできない。君は一度自殺しようとしたんだろ?もう終わりにしよう。君もそれをずーっと望んでいたんだね」
コウラはしゃがんで俯いた獣の顎に手を当てると、面を上げさせた。
「最後に可愛い笑顔を見せておくれ」
墮人鬼は眼を細めながら穏やかな顔つきでコウラを見つめていた。コウラの右手から渦動光が発し、その頭部を組織粒子に変換した。白い煙が立ち上り、残された身体は前のめりに草むらの中に倒れ込んだ。手足がバタバタと痙攣し、異様な匂いが当たりを満たした。
そして立ち込める煙の中から仮面の男が一人、ゆっくりとマントをなびかせながら少年に近づいた。コウラは少年の前で屈み込むと、少年の頬を叩いた。
「わかるか?」
「あ・・あなたは?」
微かな声が少年の口から漏れ、震える眼がコウラを弱々しく見つめた。コウラは少年に顔を近づけつつ言った。
「君、名前は?」
「イ、イ・ワ・・レ」
それだけ言うと、少年はまた失神した。
「イワレか・・・。これは、ひょっとすると・・・。おい、シンク!」
コウラは部下に命令を与えながら、少年の傷を圧迫し始めた。