渦動波
その時テルネが避けられたのは、全くもって幸運だった。
鎌を突き立てながら体当たりで挑みかかってきた獣は、目標を見誤ったのか、彼女から右に1mほどずれた場所に着地した。着地後直ぐに右手の鎌で襲いかかってきたが、テルネは左に上体を捻って回避していたため、彼女の鼻先で鎌は虚しく空を切った。そして獣は空振りの反動でバランスを崩し、回転しながら背中から大地に倒れ込んだ。大きく泥が跳ねる。しかし無理な姿勢で飛び退いたテルネも、獣のすぐ傍らに倒れてしまった。わずかな間、真横に倒れている獣と視線が合った。
彼女は墮人鬼を見るのは初めてだった。それも生臭い吐息が直に顔にかかる程間近である。体長は2メートル少しだろうか。全身が体毛に覆われ、太い首は体幹にめりこんでいるように見えた。特に両肩が大きく腫れているようで、まるで重装歩兵の鎧を着用しているようだ。左手は血のりで黒光りしている長い爪が生えた5本の指があったが、右手は手首から先に、緩く湾曲した鎌が1本ついているだけだった。眼は血走り、瞳孔が縦に細く割れ、口は耳まで裂けている。半開きの口は綺麗なピンク色で、肉食獣の牙が整然と覗いていた。
獣の吐く息が微かに変化した。
獣は仰向けに倒れた身体を捻るようにしながら、長い爪を彼女に振るった。テルネは獣から離れるように横回転しながら爪を避け、直ぐに立ち上がると、墮人鬼と距離を開けるように走り出した。
墮人鬼も跳ねるように立ち上がると、やや遅れて彼女の後を追った。
「攻性変換!」
彼女の右肩にある樹状痕が蠢くと、そこから右腕に幅5センチ程の橙色の光の帯が腕を半周回るように、手のひらに向かって皮膚の下を伸びていった。まるでムカデの体節のように節がある光帯は、皮下で燐光のように淡く輝いているために皮膚から浮び上がって見え、まるで肩から飛び出した光るムカデが腕に巻きついていく様だった。そしてテルネの手のひらの中央から、赤黒いヌメヌメとした昆虫の足のような棘が、皮膚を割いて15センチほど飛び出してきた。棘は縦に3つに割れると、分裂して3方向に皮膚を裂きながら広がり、手のひらにやや歪な『口』、『渦動口』を形成した。棘は『口』の縁で折れ曲がると、二本は人差し指と中指、薬指と小指の間に、一本は逆に手首に向かって伸び、棘の先端を前腕に突き刺して穴を固定した。
「あっ」
彼女は棘が腕に突き刺さると軽く身体を震わせた。表情が変化し、眼と口元には、軽い愉悦と狂気が現れた。
そして一瞬の後に、渦動口はオレンジ色の光に満たされ、光は渦を形成しながら急速に巨大化していった。
後ろから追う獣は、彼女との距離を急速に詰めてきていた。間も無く追いつかれる。
獣は右手を大きく振りかぶった。テルネは身体を捻りながらジャンプし、手のひらに蓄えた光の球体を押し出すように右手を獣に突き出した。
「いけ!」
光の渦が彗星のような尾を引きながら、彼女の手のひらから弾けるように飛び出した。腕の光る体節は、光球の放出と同時に肩の方から消えていった。まるで光球に結ばれた紐が抜けていく様だった。
雨滴を消滅させながらオレンジ色の光球が水蒸気を撒き散らして突き進んでいった。射出速度は、草野球の投手が投げたボール程度の速度だったが、真近に迫っていた獣には回避できる時間も距離もなかった。
獣は咄嗟に両手をクロスさせるようにして頭部を庇った。墮人鬼の上半身は光と白煙に包まれた。
「直撃!」
テルネは着地しながら勝利を確信した。
煙の中から白い尾を引きながら獣の身体が大きく仰け反るように現れると、背中からばたりと仰向けに倒れた。渦動波は獣の両前腕を抉り、胸の筋肉の一部を粒子化させていた。
彼女は靄が晴れるような爽快感に満たされた。