世界を救う
通常、医師の転勤には時間的な余裕は与えられない。前日まで働いて、翌日から新しい職場に、など当たり前だ。しかし吉島には約一ヶ月の有給が認められた。今まで有給を一度も取ったことがなかったこともあるが、民間病院の勤務医じゃあるまいし、普通は有給は学会出席ぐらいしか使わない。しかし上司の上野から有給を消化するように施され、吉島は別に断りもしなかった。彼の心にぽっかりと穴が開いたようで、何もやる気がしなくなっていたからだった。AELの治療法の発見、という壮大なクリニカル・クエッションに取り組んでいた時の充実感と達成感。そして現場から遠ざけられたという疎外感。彼の心は大きく傷ついていた。考えれば考えるほど、彼の中のわだかまりは膨らんでいた。
「パパ、ゲームしようよ」
吉島が家でゴロゴロしていたら、小学三年生の娘がボードゲームを持ってきた。『ウィルスの脅威から世界を救う』というゲームで、協力して目標を達成する、この場合は4種類のワクチンを作ることだが、協力型というボードゲームの古典だ。随分昔に吉島が買ったものだが、ルールもうろ覚えだった。それに、このご時世には余り相応しいゲームではない。
「ルール、覚えてないよ。違うのにしない?」
「大丈夫。私、ルール知ってるから。今、これ流行ってるんだよ。やろーよ」
男親は娘には弱い。渋々だったが、ルールをざっと読み返してみた。
ルールはシンプルで、世界地図の各都市を巡り、時間と共に加速度的に増殖していくウィルス(病原体コマで示される。全部で4色ある)を駆除しながら都市カード(プレーヤーカード)を引き、同じ色のカードを5枚集めると、同色のワクチンを作ることができる。そうして4種類全てのワクチンを作ることができたら、世界は救われるのだ。
同じ都市に、同じ色の病原体コマが4個以上置かれると、『アウトブレイク』と言われ、交通が繋がっている都市にも病原体コマが1つずつ置かれてしまう。もしここで他の都市にアウトブレイクが起きれば、周囲に連鎖していくことになる。アウトブレイクが8回起きるとゲーム終了で全プレーヤーの負けになる。他に、都市カードが無くなるまでに全ワクチンが作成できない、予備の病原体コマがなくなってしまう、なども敗北条件になっている。協力型ゲームなので、基本的にはプレーヤーは全員負けか、全員勝ちしかない。
見せ場は、都市カードに『エピデミック』という、病原体コマを沢山置かなければならないイベントカードが混じっていることで、一瞬で連鎖的にアウトブレイクが起こり手が付けられなくなってしまう。エピデミックは起きれば起きるほど、アウトブレイクが起きやすくなっていくようなルールになっていて、時間と共に緊張が増していく。
娘には少し難しいかと思ったが、存外理解して楽しんでいた。しかし二人では、大人でもワクチンを作り上げるのは中々難しい。娘と二人で二回やったが、2回ともすぐにアウトブレイクを8回起こしてゲームオーバーとなり、世界を救えなかった。
「パパ、今度はいっぱい基地作ろうよ」
3回目、娘は必死でウィルスの蔓延を抑えようとしていた。基地は移動、ワクチン作成になくてはならない施設だ。開始時はCDCのあるアトランタにある1つだけだが、ゲーム中、規定個数までなら作ることができる。娘は敗因として基地の個数が少なかったからと考えたらしい。
「ああ。それじゃ、イスタンブールにつくるよ」
「じゃ、私は香港につくる。パパ、キンシャサある?」
本当はプレーヤー同士の情報共有には制限があるのだが、今回の戦いは均衡しており、それどころではなかった。基地の作成により、移動がしやすくなったことと、役職が衛生兵(都市の病原体コマを除去しやすい)と科学者(ウィルスと同じ色のカード5枚でなく、4枚でワクチンが作れる)と、恵まれたことも幸いしていた。しかし4枚目のエピデミック・カードを引き、中東を中心に3回もアウトブレイクが起きてしまい、総アウトブレイク数が7回(あと1回でゲームオーバー)になってしまった。ワクチンは、3種完成しており、あと赤のみで勝利だった。
「パパ、赤何枚?」
「3枚あるよ」
「パパは科学者なんだから、赤を集めて。私、一枚持ってるから、チェンナイのウィルスを取ってからジャカルタに行く。パパもそこに行って」
プレーヤー同士は、同じ都市に止まっている場合、その都市のカードを交換できるのだ。基地はすぐそばの香港にあるので、ここに4枚の赤カードを持って入り、1アクション使ってワクチンを作れば勝利である。
「わかった。それじゃジャカルタに行くね」
吉島は自分のコマをジャカルタに移動し、都市カード2枚を引いた。ここで赤が出てくれれば良いのだが、そうはいかなかった。ルール通り、手番の最後にいくつかの都市にウィルスコマを置いたが、幸いアウトブレイクにはならなかった。
「危ない、危ない」
吉島はほっと胸を撫で下ろした。彼もゲームにかなりのめり込んでいたのだ。
次に娘の手番で、彼女はジャカルタに着くと、アクション1回で赤のジャカルタのカードを吉島に渡した。そしてこの後、娘が感染カードを引いてアウトブレイクが起きなければ、次の吉島の手番で香港の基地に移動してワクチンを作り上げることができるので初勝利である。しかしエピデミックを4回起こしているため、感染カードは3枚引かねばならない。このカードに書かれた都市に病原体コマを1つ置いていくのだが、もし1つでもアウトブレイクになれば敗北だった。すでに多くの都市に病原体コマが3個置かれており、危ない状況だった。またエピデミックになるたびに、一度使った感染カードをシャッフルした後に感染カードの山の上に戻さなければならない。つまり今まで出てきたカードをもう一度引くことになる。すでに病原体コマが置かれた都市の感染カードを引くことになるわけだ。出そうな都市の予想はできる。アウトブレイクになる確率は五分五分か。
娘は震える手で感染カードを引いた。
「サンクトペテルブルク!セーフ」
吉島は自分の手にも汗が出ているのがわかった。
「イスタンブール!よし!」
娘も興奮していた。そして最後の1枚。娘はカードを引こうと下が、
「パパ引いて」
と言うと手を引っ込めた。
「え?なんで?」
「私、なんか自信ない。パパ引いてよ」
「うし!任せとけ!パパが世界を救うぞ!」
吉島は生唾を飲み込むと、ゆっくり感染カードを引いた。
それは娘がウィルスを駆除しておいたチェンナイだった。
「やったー!勝ったー!」
娘とハイタッチして喜び合った。
彼は小さな世界を救ったのだ。
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翌日、吉島は既に心を決めていた。
やはり発表しよう。
PCも検体も根こそぎ持って行かれたが、隠しておいたデータのコピーは手元にある。発表してしまえば、吉良も国も何もできないだろう。
彼は方法を検討した。学会発表はダメだ。抄録で自分が出したことはすぐにばれるし、時間がかかると露見するリスクが高くなる。ネットに投稿するのも手だが、少し前にあった国会議員の贈賄事件の時のように、偽情報にカモフラージュされたらアウトだ。このご時世、それらしい情報をネットに流布するのは、作成時間を含めても1時間あれば十分である。
あの事件では、贈賄疑惑がネットに流れた瞬間、様々な政治家や会社などのスキャンダルがネット上に同時に流れ始めた。内部告発だけで40件以上はあったはずだが、殆どがフェイクだった。結局は大量の情報に踊らされ、マスコミは一つも裏を取ることはできなかった。そうして、本命と思われた政治スキャンダルもうやむやにされてしまった。裏サイトでは、ネット情報の撹乱を専門とする組織があると、実しやかに囁かれている。国民は出処のしっかりした情報以外は信用できないことに気付き、報道機関の情報価値が上がる結果になった。今ではネットに噂が載っても、誰も本気にしなくなっている。
やはり報道機関しかない。友人に朝夕新聞科学部の記者がいる。一度向こうからインタビューに来たことがあった。面倒くさかったので適当に対応したが、内容は家庭欄の隣にあるコラムに小さくだが掲載された。新聞に載ったのは初めてだった。そしてその切り抜きはまだ家にスクラップしてある。名刺もあったはずだった。