ナナホシクドア
院長達はプレゼンを聞き終えると、暫く沈黙していた。吉島は身の置き場のない、嫌な空気の中で待つしかなかった。まるで廊下に立たされた生徒のようだ。
院長は隣の男と視線を合わせた後に軽く頷くと、ようやく口を開いた。
「吉島君、よくやってくれた。内容を吟味するから、全ての資料をすぐに提出しなさい。そしてコピーは全て破棄するように」
「え、全てですか?」
吉島は耳を疑って聞き直した。
「ああ。全てだ。チャート、実験ノート、ファイルも全てだよ」
「ですが、早急に学会報告を作らないと・・・」
「いいかね、全て《・・》だ。HMDやプリントアウトも全てだ。上野君、君の責任で、直ぐに私の所に持ってくるように」
刑部は眼鏡を直しながら、
「吉島さん、一応確認しておきます。もう分かっていると思いますが、これはとてもデリケートな問題です。PCのデータはこちらに渡した後、全て消去して下さい。このことは他言無用です。共同研究者の村上さんにもデータを提出するように話しておいて下さい」
と穏やかな声で付け加えると、院長と共に会議室を出て行った。
後に取り残された吉島は、
「上野さん、おかしいですよ。なんでですか?直ぐに学会に報告しないと犠牲者が増える一方です」
と上野に食ってかかったが、上野は吉島の肩を叩くと、
「いいかね吉島くん、これは命令なんだよ。昔とは違うんだ。君は公務員なんだから、下手したら特定秘密保護法で捕まるよ。悪いことは言わない。まだ発表できないと決まったわけではないんだし。直ぐに用意して私の部屋まで持ってきなさい」
吉島はそれ以上抵抗するすべもなく、研究結果を提出せざるおえなかった。翌日彼は資料を提出すると、医動物の村上に電話をした。吉島の話を聞いた村上は、通話口で激怒した。
「なんだ、そりゃ?いいよ。それならこっちで発表しようぜ。寄生虫学会じゃ、少しインパクト低いがな。明日にでも清水教授に相談しておくよ」
******
村上は翌日、清水教授室に相談に行った。
教授室は、相変わらず本や資料が雑然と積み上げられ、部屋の傍らの顕微鏡が押し潰されそうだった。
「すみません、少しよろしいですか?」
清水は朝から顕微鏡を覗き込んでいた。村上の声に首を上げると、
「おお、お前か。こっちから呼ぼうと思ってた。こっちに来い。これは何だと思う?」
村上は明け渡された顕微鏡の前の席に座り、レンズを覗き込んだ。中には綺麗な花びらのような菌が固定されていた。
「ナナホシクドアですね。綺麗な固定です」
「ああ。Kudoa septempunctataだ。あれは2007年、いや、8年だったかな?その頃は厚労省の下で働いていてな。散発的だったが罹患者数の大きな食中毒の調査をしていた。魚の生食が原因だと思われたが、明確にはわからなかった。下痢が中心で死ぬことはないが、全国に発生して季節性があった。9月から10月ぐらいに多い」
「ヒラメですよね」
「そう。ヒラメだった。このクドアの食あたりは昔から知られてはいたんだ。だが、我々の間では人には感染しないと言われていたので、当初は見逃していた。宿主は魚だとね。怪しいと思ったが、確認をとるまで発表しなかった。結局、子供が一人犠牲になった」
清水は村上の肩を叩くと、ソファに座るように促した。清水は村上の向かいに仰け反るように座ると、天井を見上げてため息をついた。
「時々見たくなるんだ。ナナホシクドアをな。・・・所で、お前、何をやってる?」
「何って、えー、実は今日はそのことでご相談を・・・」
村上は清水に彼らの発見を資料を見せながら説明した。
「ナルホドな。こりゃ、奴らが食い付くわけだ」
村上の説明を一通り聞き、いくつか質問をした後、清水はボソリとつぶやいた。
「奴らと言うのは?」
「今朝、妙に肩幅の広い役人が訪ねてきた」
「厚労省ですか?」
「ああ。だがあんなガタイのいい官僚はいねぇよ。名刺にはわけわからん肩書きが書いてあった。ありゃ国防省だよ。そこのバイオテロ特別班が口を突っ込んできたんだ。あそこは厚労省が隠れ蓑になってるからな」
「国防省が?なんでですか?」
「そりゃ、お前らの発見が国防に役に立つと考えたんだろうよ。いいか、今回は面会の前に医学部長から連絡が入った。かなり上から手が回っているんだよ。残念だが発表は諦めな」
「し、しかしですね、この結果は人類にとって」
言いかけた村上の発言を、清水は途中で制した。
「わかってるんだよ、そんなこたぁ。だがな、俺たちは政治家じゃない。そして俺たちは宮勤めなんだ。分かるか、言っていることが?」
「・・・はい」
「先走れば、良くて逮捕、悪けりゃ失踪だ。お前、そんな勇気あるのか?俺にゃないね」
清水は両手を上げて降参のジェスチャーをした。村上は沈黙しているしかなかった。
******
数日後、吉島は靖の担当を外され、回療院から他の国立病院の部長として移動するように命令された。妻はこの栄転に大喜びしたが、彼にはどうしても割り切れない気持ちがあった。
何故院長は発表しないのだろう?多くの人々を助けることができるかもしれないというのに。
村上に連絡を取ったが、彼は言葉少なに、
「もう俺は降りた。これ以上連絡はしないでくれ。いいか、お前も忘れろ」
と言うと、電話を切られてしまい、以後吉島から連絡しても電話に出てもらえなかった。
翌日、吉島は靖に別れを告げに行った。靖は狭い部屋の隅に座っており、右手のひらをじっと見つめながらブツブツとつぶやくばかりだった。
「それじゃ、靖くん。身体に気をつけてね」
しかし靖の反応はない。最近の彼は、様子がおかしかった。元々口数が少なかったが、質問にはちゃんと答えてくれていた。だが近頃は、時々このように、何かに取り憑かれたようになってしまうのだ。しかし自分には、彼にしてあけられることは何もない。彼は間違いなく、一生をこの狭い部屋で過ごすことになるのだ。
吉島は靖の肩を軽く叩くと、そのまま病室を出て行った。