ビッグシックス
翌日、吉島は吉良院長から、回療院の最上階にある第三会議室に呼び出された。回療院の事務棟には大小8室の会議室があった。
2人は会議室の扉の前で顔を見合わせながら、しばらく立ちすくんでいた。そして上野は生唾を飲み込むと、扉をノックした。
「入りなさい」
すぐに返答が返ってきた。吉良院長の声だった。
「失礼します」
上野が扉を開けると、2人はほぼ同時に会議室に入った。
第三会議室は10人前後の会議を行うためのやや横長の部屋だった。部屋の中央には『口』の形の机が置かれ、左の壁には巨大なモニターが設置されていた。そして窓に面した正面の席に、院長と見知らぬ男が座っていた。男は細面で黒縁のメガネをかけたスーツ姿で、官僚のステレオタイプの容姿だった。2人は院長の前まで歩いて行くと、
「お待たせしてすみません」
と頭を下げた。
「吉島君、よく来てくれた。早速だが君の報告を聴こう。プレゼンはできるかね?」
「は、はい。あの・・・そちらの方は?」
「私の知り合いで、この件に関心をお持ちの方だ。そんなこと気にせず、さっさと・・・」
「まあまあ、院長。申し遅れました。私はこういう者です」
男は吉良を軽く制して立ち上がると、吉島に名刺を差し出してきた。
NPO法人 絆 代表
刑部真也
「はあ」
「実は、靖くんの身元保証人です。お話を伺いたいと院長に無理を言ってお願いしました。彼が心配なのです。お分かりいただけたでしょうか」
お固そうな外見とは反し、男は優しく微笑みながら軽く会釈した。
「はあ」
吉島はこの眼鏡の男を前に見たことがあったが、思い出せなかった。
「吉島くん、分かったなら、とっとと説明しないか。お待たせしては失礼だろ」
吉良が苛立たしげに吉島をせかしたため、慌てた2人は急いでプレゼンの準備を始めた。吉良は帝都大の教授だった人物で、ウィルス学の権威である。厳しいと評判で、部下を恫喝することもしばしばだった。吉島には苦手なタイプの人間の1人だった。
上野は部屋の調光を落とし、正面の巨大なモニターのスイッチを入れた。薄暗い部屋に巨大なブルーの光が灯り、人々の顔を陰鬱な色に染めていた。吉島はプレゼン用のHMDをコンピュータに差し込んだ。そしてキーボードを操作すると、靖の情報を列挙した画面が映し出された。
「コホン。え、そ、それでは始めます」
吉島は吉良の高圧的な態度に緊張して、しどろもどろになりながらプレゼンを始めた。
「少年A 17歳は、さ、昨年、肉親の損壊事件を起こして補導され、その時にAELウィルス感染が発見され、12月に当院に入院しています。既に感染から5ヶ月が経過していますが、AELウィルスによる臓器障害は認められておりません」
スライドは靖の右肩の樹状痕の写真に変わった。
「彼の右頸部から肩にかけて樹木の根のような腫張があり、中には0.2センチほどの寄生虫が発見されました。これがそれです」
スライドに組織染色が現れた。HE染色で固定された写真は、ピンク色と紫色とのコントラストが美しく、中心に虫と思われる生物の断面が紫色に固定されていた。
「医動物学教室に鑑定を依頼しました」
スライドが変わった。熊本芽殖孤虫の顕微鏡写真である。組織内でシワのある細い虫が、左右対称に天使の様な大きな羽根を広げていた。
「これが『熊本芽殖孤虫』という寄生虫です。今回の虫は、この『熊本芽殖孤虫』の成虫であり、現在まで報告がない新種だと判明しました。まだ正式な命名がなされていないため、この寄生虫を仮に『熊本芽殖条虫』と呼びます。
寄生虫学者らによると、『熊本芽殖条虫』は、一次中間宿主はカエルなど両生類で、二次中間宿主・終宿主はともに『ヒト』です。『ヒト』に感染して増殖した幼生は、『ヒト』に再度寄生して成虫になるという、ユニークな生態を持っていました。感染経路は経口です。通常条虫は腸管に生息しますが、こいつらは筋肉や皮下組織、それと神経組織周囲や脳内に生息します。生息部位は幼生も同様で、便中に幼生や虫卵の排泄は見つかっておりません。
幼生は単性生殖が可能ですから、成虫にならなくても絶滅する訳ではありません。しかし種として、単性生殖は遺伝的弱体化を引き起こす可能性がありますので、今迄生き残ってきた所を見ると、成虫は細々と生まれていたのではないか、とのことです」
院長は眉をしかめた。
「なにかね、つまりこの虫ケラは、カニバリズムで感染する寄生虫で」
「アントロポファジーだよ」
院長の隣に座っていた男がボソリとつぶやいたが、院長は無視した。
「今でも、日本でカニバリズムが行われていると?」
吉島はあたふたと答えた。
「私には寄生虫や民俗学的なことはわかりません。しかし少年Aが感染した理由は、肉親の食人であることは間違いありません」
『カニバリズム(cannibalism)』とは食人習慣のことである。『人食い人種-規模と衰退』の著者、フランク・レストランガンによれば、カニバリズムという語は最初スペイン人が広めたものであるが、その始まりはコロンブスだったらしい。語源は『カニバ(Caniba)』という語で、カリブのインディアンは自らをこう呼んでいた。彼らの言葉で『勇敢な』という意味である。カリブのインディアンが人食習慣を持つと信じたスペイン人により『カニバル』という言葉が『人食い人種』を指すようになり、そして18世紀に『カニバリズム』とうい言葉が生まれた。そのため『カニバル』は、元々は小アンティル諸島の人食い人種のみを指していたが、徐々に範囲が拡大していった。
『カニバリズム』とほぼ同義語に、ギリシア語由来の『アントロポファジー(anthropophagy)』があるが、これは『人肉食い』を意味する。19世紀になると民族学者達は、『アントロポファジー』と『カニバリズム』を厳密に区別するようになった。それにより、『アントロポファジー』は、いかなる文化からも外れた行為、精神障害や動機なき暴力による違法行為の産物を示し、対する『カニバリズム』は掟や法、儀式、特権、禁忌事項のある一つの制度で、共同体全員が関わる体制の一要素を示すようになった。しかし近年はこの二つに用語的な差はなくなっている。
日本ではメディアの影響もあり、圧倒的にカニバリズムの方が有名である。またスペルが似ていることから、『カーニバル(carnival:謝肉祭)』と間違えられることがある。70年代のホラーの良作『地獄の謝肉祭CANNIBAL APOCALYPSE』はその良い例である。
『カニバリズム』の特徴は、
(1)歴史が古いこと
(2)世界中に認められること
(3)社会制度に取り入れられていたこと
が上げられる。
食人は人類と同じくらい古い歴史を持っており、もっとも原始的な社会から洗練された社会まで、例外なくすべての社会が過去にこうした時期を経ている。
日本でもモースの食人説が有名で、1879年に大森貝塚の発掘調査報告書を東京大学から発行している。これは日本初の学術論文であるが、貝塚から発見された人骨の分析から、「日本に人喰い人種がいたことを、初めて示す資料である」とした。異論は多いが、歴史的に重要な資料であることに偽りはない。
なぜ人は食人を行うのか?
大きく分けると、
(1)食料
(2)美食
(3)復習
(4)敵への威嚇
(5)呪術・宗教
(6)力の誇示
(7)薬
(8)法的な裁き
に分けられる。
食人は経済的には非効率な行為である。食人の対象は捕虜が多いが、捕虜は奴隷として利用する方が有効であるからだ。その為『食料』としての人肉食いは廃れてくる。そして時代を経るに従って、呪術的・社会的要素が強くなるのである。
このような様々な理由付けがなされてはいるが、『カニバリズム』が人間の本能に根差した行為であることは、その範囲や規模、歴史から考えても否定することは困難である。やや誇張してはいるが、有史以来現在まで、食人が全人類世界で禁じられたことは一度もなく、世界の何処かで『カニバリズム』が、つまり社会制度としての食人が、必ず行われていることは事実である。食人の実践者は、19世紀初頭には1億人以上いたとみられたが、1910年頃には5000万人、20世紀半ばでも300万人が定期的に人肉を食べているとの推定もある。しかもこの数字には散発的な食人は含まれていない。
スライドは末梢好酸球の写真に変わった。
「好酸球の組織への浸潤には好酸球遊走因子(eosinophil chemotactic factor:ECF)が重要なのはご存知の通りで、肥満細胞などが分泌すると報告されています。さらに寄生虫由来のECF、ECF-Pも作用して寄生虫の周囲に好酸球を集めます。好酸球は直接抗体を介した寄生虫の駆除と、脱顆粒により酵素を放出して肥満細胞の制御を行い、寄生虫排除に貢献するのです」
「知ってるよ。基礎的なことはいいから、要点だけ話してくれないか」
「は、はい」
「この寄生虫は驚くべきことに、ECF-Pに類似するタンパクを分泌することで、好酸球を自在に操っています」
吉島は実験結果のスライドを次々に示した。
「少年Aの末梢好酸球は形態学的にも、フローサイトメトリーでみた機能的にも活動性が落ちています。動物実験でも同様の結果を得ました」
「その蛋白の精製はできるのかね?」
「蛋白の構造解析は現在、生化学教室に依頼して行なっております。この蛋白を含む好酸球の制御により、無秩序な好酸球の腫瘍性増殖は抑えられ、宿主組織への好酸球浸潤が起こらずにいます」
吉島は徐々に声のトーンが高くなってきていた。興奮して手元のパッドを強く圧迫しすぎたため、表面が歪んで虹色に輝いていた。
「これは大発見です!現在起きている『ビッグシックス』を阻止できる可能性を秘めており、世界中の多くの人命を救うことができます」
『ビッグシックス』
地球誕生から40億年。生物は今迄に5回の大量死『ビッグファイブ』をくぐり抜けてきた。
有名なのは白亜紀の恐竜の絶滅だが、最も大きな絶滅はペルム紀の大量絶滅で、地球上の生物の95%が死滅したと考えられている。しかし恐竜が絶滅したことにより哺乳類が繁栄できたのは事実であり、大量絶滅が進化を促してきたことは否定できない。
現在、急速に動植物が絶滅してきており、20世紀から既に6番目の大量絶滅、『ビッグシックス』に入っているという学者もいる。また、現代社会を脅かしているAELウィルスが『ビッグシックス』を作り上げるとも言われていたが、所詮は人類を中心に考えた仮説でしかない。