回療院
拘留されていた神沼靖の身柄は検察庁に送られ、精神鑑定を受けることになった。しかし彼が送検後に発熱し、AELウィルスに感染していることが判明したために、西九州大学医学部付属病院の隔離病棟に入院となった。
この頃になると、全国の高度医療病院、急性期病院には隔離病棟が完備されていた。そこで初期治療を行い、安定後には全国に約100箇所設置された感染者を専門に隔離する施設、AELウィルス感染者回復期医療施設(回療院)、に隔離され、そこで死亡していくことになる。現在、回療院がAELウィルス研究の中心を担っていた。この隔離施設の完成頃から、AELウィルスはパンデミックからピークアウトしていたが、依然脅威は続いていた。徐々に季節性が出てきているようで、春と秋に患者数が増える傾向が認められていた。
靖は起訴されたが、AELウィルス感染者になったこと、姉は病死だったこと、精神鑑定から当時は心神喪失にあり、責任能力は問えないと判断され、不起訴処分となり、回療院に入院することになった。九州地区は北部、中部、南部に分けられ、北部で最大の回療院は西九州大に隣接して建設された。ピークアウトした現在、入院患者数は約1000人とピーク時よりも大幅に少なくなっていた。靖が入院したのは、そのような時だった。
今週から靖の担当を引き継いだ吉島は、頭を捻っていた。
入院後の検査では好酸球数はピークアウトしており、臓器障害を起こさないまま4ヶ月が経過した。これは異常だった。AELウィルスの長期生存記録は、冬眠症例を除くと発症から約6ヶ月の報告があったが、通常は3ヶ月程だ。研究者の間では、その報告はAELウィルス感染者ではない誤報だと考えられていた。もし真実だったとしても、その症例はICUに入って集中治療を受けての6ヶ月生存である。しかし靖は一般隔離病棟にいて元気に生活している。NSAIDsと免疫抑制薬は投与されていたが、それも少量だった。発熱も消失しつつあり、好酸球数が減少しつつあった。前任者はかなり適当な診療を行っていたようで、カルテには『病態安定。特記すべき所見なし』の記録が並んでいた。吉島は電子カルテをログアウトすると、ため息をついた。
電子カルテは2000年頃から、オーダリングシステム(検査オーダーシステム)として導入が進んでいった。医療が細分化・高度化したため、従来のアナログ的な構造では対応できなくなったことと、医療機関が紙やレントゲンフィルム媒体の保管場所に苦慮したためだ。コンピューターとネットワークが進歩したことから、カルテ自体の電子化も徐々に進み、2020年頃には日本中ほぼ全ての医療機関に導入された。しかし企画の統一には至らず、統一には更に10年余の月日が必要となった。電子カルテでは音声入力も可能だが、狭いナースステーションでカルテを読み上げる訳にはいかず、いまだにキーボードからの手入力が多い。しかし頻回に使う言葉はコピペができるので楽だった。
回療院は慢性的な医師・スタッフ不足に悩まされていた。人口の激減により、スタッフが充実している職場も少ないので文句は言えないが、政府による統制により医療機関には優先的に人材が回されているにもかかわらずである。特に回療院の医師不足は深刻で、多くの医師は回療院の仕事を忌避する傾向が強かった。感染リスクが高く、回復の見込みの無い患者と向き合わなければならないのだ。それも老若男女問わずである。若者が多い分、ホスピスより過酷だった。しかし給与は破格だった。危険手当が国から支給されているのが大きく、基本給も通常の勤務医の1.5倍はある。前任の医師も吉島も、結局は金のために働いていた。だが吉島はまだいい方である。彼は専門は血液内科で、『HTLV-1ウィルスによる癌化抑制』で学位をとっていた、ある意味専門家だ。まだこの状況に耐えられた。そして今時珍しく、知識欲とともに出世欲も持っていた。
「初めまして。吉島と言います。今日から君の担当になりました」
防護服を着て神沼靖の病室に入った吉島は、少年を見てやや驚いた。写真では見ていたが、かなりの美少年だった。背は高かったが、全体に線が細く、髪はストレートで肩までの長さがあった。吉島は靖の姉、桃花といったか、の写真を資料で見たことを思い出した。それは、靖と並んで撮られたスナップで、少し固い表情の靖の傍で、美しい姉が彼の肩を抱いて笑っていた。しかしそのあまり似ていないが美しい姉弟は、もう並んで写真に写ることはないのだ。
少年は吉島の挨拶には答えず、熱心に本を読んでいた。
「何を読んでいるのかな?・・・聖書?」
「・・・ヨブ記」
「クリスチャンなのかい?」
「違います。暇なので」
「僕は読んだことがないけど、面白いのかい?」
「別に・・・。他の本は読んじゃったので」
吉島はベッドの傍に積み重ねられた本の山を見た。大衆小説から医学の教科書まで一貫性がない。
「それじゃ、少し診察してもいいかな?」
少年は別段抵抗もせず、素直に従った。理学的所見をとっていた吉島は、靖の右肩にまるで樹木を逆さにしたような痕が出来ているのを発見した。前医の記録では小さな発赤があると記載されていただけだった。
「なんだ、これ?」
以前、雷に撃たれた時にできた樹状痕というやつを、雑誌か何かで見た事があったが、それに似ている。しかし樹木の根に当たる部分は化膿した様な発赤と腫脹が認められた。
「これ、いつからあるの?」
「ここに来た頃にはできてました」
「大きくなってきているの?」
「はい」
吉島は靖を精密検査することにした。この施設には大学病院並みの検査機器が揃っており、全て隔離下で行うことができるのだ。
検査には約1週間かかったが、その結果、靖はある種の寄生虫に感染していることが判明した。大学の寄生虫学者に確認してもらうと、『熊本芽殖孤虫』の成虫と確認された。『熊本芽殖孤虫』は、彼の姉の身体から発見された寄生虫であり、彼の罪状を考えると感染していて不思議はなかった。腫脹部を切開して組織検査を行うと、0.2センチほどの条虫が確認できた。その周囲には好酸球が集蔟し、核の不整形さが消失していた。どうやらこの寄生虫がAELウィルスによる好酸球の無秩序な増殖を抑制しているらしい。吉島はこの世紀の大発見に興奮した。
好酸球は骨髄系細胞由来の顆粒球の一種である。1879年、Paul Ehrlichによって好酸性色素 に強く染色される顆粒を有する白血球として報告された。大きさは直径8μmであり、好中球よりも大きい。染色の結果だが、薄い橙色に輝いている。
3週間ほどかけて、吉島はこの寄生虫の特徴を調べあげた。寄生虫を扱うのは初めてだったため、医動物学教室の村上に協力してもらった。村上は言動が乱暴で、ややとっつきにくい男だが、この条虫の存在を知っている唯一の研究者だったし、秘密保持には信頼がおける人物のように思えた。
「村上先生、これを見て下さい」
「うひょ!こりゃ凄いねえ。間違いないよ、吉島先生」
二人の眼には、扁平な帯のような虫が、オレンジ色の球体を、まるで鎧のようにまとっている姿が映っていた。
吉島達は一つの結論に達した。
この寄生虫は、AELに感染した好酸球を操ることができるに違いない。神沼少年が無事なのは、この虫に護られているからだ。右肩の樹木の根のような腫れは、移行症(皮膚の下を寄生虫が移動することで発生する病気)の痕と考えられた。村上が言うには、成虫が皮膚移行症を起こす例は聞いたことがないらしい。条虫にしては体長が小さいことが関係しているのかもしれなかった。
条虫は別名、サナダムシのことで、真田紐にその形が似ていることからつけられた、古来から日本人には馴染み深い寄生虫である。腸管に住み、体長は10メートルに達することもある。この寄生虫は、外見は条虫の特徴を有しているが、その性質はまるで異なっていた。
「ありゃまるで、エイリアンが擬態化したみたいだぜ。サナダちゃんの仲間じゃねえよ」
村上と飲んだ時に漏らした言葉である。
「エイリアンねえ・・・。確かにね。数年前には、世界がこんな風に変わってしまうなんて、誰も予想できなかったもんな。まるで陳腐なSFだよ、この世界は」
寄生虫によるAELウィルスの制御いよる治療。それも既に症例が存在しているのだ。この発見は間違いなくノーベル賞クラスの発見である。村上との共同研究として早急に発表しなければならない。
吉島は手短に結果をまとめると、まず上司の上野に報告した。症例が回療院にいるのだから、まず上司の許可を取り付ける必要があった。村上が医動物学教室の清水教授に話すのは、その後にしてもらうことにした。
上司の上野は嫌な奴だった。しかし、吉島のレポートを読むと、驚きの声を上げた。
「こ、こりゃあ本当なのかい?凄いよ、吉島君。流石僕が見込んだだけのことはある。僕が直ぐに院長に報告してあげよう」
彼に見込んで貰った記憶は無かったが、いつも彼を顎で使っていた上野の態度が急に変わり、彼の気分は爽快だった。証拠も十分あり、動物実験、組織検査とフローサイトメトリーの結果も揃っている。院長も十分に納得させられるだろう。
帰ったら妻に報告しよう。これで俺も有名人の仲間入りだ。
この施設に転職してから、妻との仲は冷え切っていた。妻はここへの転職に反対していたのだ。当初は自分を心配してくれているものと思っていたが、彼女の言葉の端から、彼女自身の身を案じているのだと解り、彼は落ち込んでいたのだ。しかしこれで出世間違いなしだ。そうなれば、こんな危険な職場からも解放され、夫婦関係も上手くいくだろう。吉島は有頂天になっていた。