殉床
菊池は1週間程前に覚醒してからというもの、目覚ましい回復を見せていた。特に食欲が旺盛になり、活力が出てきていた。しかし顔色は悪く、眼に光がなくなっていた。毎晩悪夢にうなされ睡眠不足となり、眼の下はクマにかたどられていた。
彼にはここに入所した時の記憶が無かった。しかしおぼろげな記憶があった。
恐ろしい記憶が。
そして彼は担当回術師に懇願した。
「彼女に、レイヨに会わせてくれ」
菊池は大凡のことは理解していた。
しかし確認しなければならない。
自分の犯した罪を。
暫く待たされたあと、菊池の前には長い黒髪の青年がやってきた。庵羅である。薄い口元には笑みが蓄えられていた。
「この間、刑務所であった以来ですね。体調は戻りましたか?」
「ああ。前より具合はいい」
「それは良かった」
菊池は青年の態度や容姿に違和感を覚えていた。若く見えるが年齢は多分自分より上なのだろう。そして彼の瞳は何かに期待している子供のようだった。
「そんなことより、レイヨに会わせてくれ。生きて、まだここにいることは分かっているんだ」
「ははっ!」
青年は大袈裟に両手を広げると、菊池に近寄ってきた。
「レイヨ?ああ、彼女はレイヨっていうんですね。確かにここにいます。でも会ってどうするんです?」
「レイヨに、レイヨに合わせてくるれだけでいい。お願いだ。俺は段々彼女の顔を忘れてきている。このままじゃ、このままじゃ・・・」
菊池はうつむきながら、両手で頭をかきむしった。
「まあまあ。でも大凡の見当はついているんでしょう?なぜ自分を責め苛むような行為をしなければならないんですか?そんな無意味なこと。どうしてもとおっしゃるなら、せめてもう少し身体が落ち着いてから会った方が・・・」
菊池は大きく被りを振ると、立ち上がって庵羅に詰め寄った。
「それじゃダメだ。遅い、遅すぎる。彼女の苦しみを理解るできうちに・・・。もうすぐ俺は俺でなくなる・・・。頼む!俺がここにいる間に・・・お願い・・・」
菊池はそのまま床に座り込んでしまった。
「そうか。貴方はまだ適応者に近いんでしたね。忘れてました。奴らは本当に不思議な生き物です。結果の見えた戦を、敢えて行おうと言うんですから。あなたを見ていたら、若い時に会ったオリジナルの女を思い出しました」
庵羅は深いため息をついて続けた。
「だが覚悟はできてるのですか?共生者になる前の、貴方の人格をも拭い去らんとする現実に」
「・・・まだやれることが一つでもあるうちに・・・」
「いいでしょう。しっかりしなさい。貴方はこの世の王なのだから」
庵羅は菊池を連れて地下牢へと向かった。地下には雑然と檻や荷物が並んでいて、とても人を収監するための施設とは思えなかった。二人は通路を最も奥まで進んでいった。そこには鉄の扉があり、眼の位置に開閉式の覗き窓が作られていた。
牢の前には看守が一人いて、庵羅を見ると凧型を組んで敬礼をした。
「貴様は席を外してくれ」
看守がいなくなると、庵羅は持ってきた鍵で扉を開けた。
金属が軋む大きな、地を這うような音が長く廊下に響いた。
「うっ」
まず血生臭い空気が菊池を舐めた。
嘔気を催す腐臭と獣の臭い。
扉の先は採光窓が無いのか、深い闇に包まれ、まるで黄泉への入口のようだった。
「さあ、進みたまえ!それが貴方の受け入れし世界です!」
菊池は一歩一歩、闇の中に足を進めた。
湿度の高い空気が、体に重くまとわりついた。
悪夢で見た闇のように、身体中の穴から闇が入り込んでくるようだった。
「レイヨ。僕だよ、レイヨ。いるんだろ?」
闇の奥から、微かだが衣擦れの音がした。
「レイヨ」
彼は動くモノに呼びかけた。しかし、モゾモゾ動くだけで応答はない。徐々に眼が暗闇に慣れてきた。小さな牢屋で壁の脇に簡素なベッドがあり、毛布の下に動きがある。レイヨはそこにいるらしい。
「レイヨ!」
菊池は近づくと、毛布を剥ぎ取った。
この瞬間、彼の運命は不可避の負の渦巻線に再び乗ってしまった。
それは、この世界の支配者が、殺戮と収束を選んだということである。