悪夢
菊池は暗闇の中にいた。
真の闇。
闇がまるで空気の様に、彼の周囲に満ちており、気がつくと彼の鼻や口から体の中に侵入してくる。
呼吸が苦しく、彼は喉を掻きむしった。
「い、息ができない。」
声にならない叫びが、彼の喉から吹き出した。
彼はガクッと両膝を折ると蹲り、必死に呼吸をしようともがいた。
「ぐ・・・が・・・」
彼はそのまま倒れこむと、右手を前に出し、何かを掴もうとした。
すぐそこにある何か。
それは突然、彼の前に表れた。
オレンジ色の光が彼の前にゆっくりと近づいてくる。
光の中に薄らと人影が見えた。
彼は意識を失った。
どのぐらい意識を失っていたのだろうか。菊池は眼を覚ますと、女性の膝に頭をもたれていた。
ゆっくりと女性の顔を見上げた。
彼女の周囲は光り輝き、あまりの眩しさに彼は眼を細めた。眼が明順応するまで暫くは彼女の顔を認識できなかったが、彼女の体臭はとても懐かしく、彼には慣れ親しんだ心地よさがあった。
「沙耶・・・」
彼女の顔は沙耶のものであった。沙耶は白いドレスを着ており、いつものように微笑んでいた。年若い少女のような微笑み。いや、確かに少し若く見えた。まるで高校生ぐらいだ。周囲は彼らの同棲していたマンションそばの公園だった。一面に緑の芝生が生えており、遠くで子供達のはしゃぎ声が聞こえる。
「よく寝てたわね、たかちゃん」
彼女はいつも通り微笑んだ。彼女の長い髪が軽く彼の耳にかかる。いい匂いがした。
「どうしたの?かなりうなされていたけど」
菊池は体に汗をかいているのがわかった。芝生を渡る風が、心地よく彼の体を乾かしていく。
「いや、大丈夫。なんかとても悪い夢を見ていたみたいだ。本当に、嫌な・・・」
起き上がろうとしたが、体が動かなかった。
「あれ、おかしいな」
「どうしたの?」
「なんか、身体が動かないんだ」
「ふふふ。疲れたのよ。昨日も手術で午前様だったじゃない」
彼女は細く長い指先で菊池の髪を撫でた。急速に睡魔が彼に襲いかかってきた。瞼が重くなり、全てが億劫になってきていた。
「貴方に話したいことがあるの・・・」
「・・・なに?」
「ありがとう」
「何が?」
菊池は彼女の妙な態度が気になり、眠気に抗いながら彼女を見た。しかし何故か、彼女の顔にピントが合わない。顔だけがかすれ、まるでのっぺらぼうである。
「私に貴方の・・・大切な・・・ありがとう・・・。
私はここまで・・・。
ありがとう、たかちゃん。
私は幸せだった・・・」
彼女の、のっぺらぼうの顔を中心に世界が歪み始めた。それを追いかけるように、周囲の景色も歪んでいく。
「さ・や・・・」
ホワイトアウト。
菊池は周囲が白く光っているのか、自分の意識が消えていくのか判断できなかったが、真っ白な空間に横たわっていた。
すると徐々に景色が現れてくる。始めに景色の輪郭が、まるで線画のように形作られ、そして色彩が加えられていった。
川のせせらぎの音。
虫や鳥の鳴声・・・。
森の中だ。
気がつくと、菊池は再び白いドレスの女に膝枕されていた。
「タカヨシ、大丈夫?」
覗き込んだ顔はレイヨであった。心配そうな眼で覗き込んでいる。ここは幕多羅の側の森だ。レイヨと一緒に何度か行った事があった。
「ねえ、大丈夫?まだ体がおかしいの?」
レイヨは菊池の額に手を置いた。
「いや、大丈夫だよ。なんか悪い夢を見ていたみたいだ」
「そう。良かった」
彼女はいつも通りの笑顔だった。
「私、あなたに話したいことがあるの。とても大切なことが・・・」
彼女の顔に影がさした。
「お別れを言いにきたの」
「え?」
菊池は体を動かそうとしたが、やはり指一本動かなかった。
「もう貴方とは話せないの。これで最後なの」
「なぜ?」
「だって、しょうがないよ。
・・・運命なのよ。
でも最後に貴方に会えて、とても嬉しいよ。
もう二度と会えないと思っていたから。
それに、ただ死ぬんじゃなくて、貴方のために死ねるなら、私・・・」
「嫌だ、そんなのは。もう二度と嫌だ!」
「・・・ありがとう、タカヨシ。
私も悲しいけど、これからはずうっとあなたと一緒。
ただ、一つお願いがあるの」
レイヨは悲しそうだった顔に、笑顔を無理に作った。
「・・・私を殺して欲しいの」
「な、何を言っているんだ?」
菊池には彼女の言葉が理解できなかった。
「いいから聞いて。お願い。
私はあなたと以外は嫌なの。苦しいの。
お願い、早く殺して。
あなたの手で。
私はあなただけなの。
愛してる。
愛してる、タカ・・」
まるで水面に垂らしたインクのように、レイヨの体は菊池の視界一面に拡散していった。彼は何度も何度も、彼女の名前を叫んだ。
菊池は眼を覚ました。すると、直ぐに口の中に生臭さを感じて嘔吐した。しかし彼の胃には何も入っていないため、透明な胃液しか出ず、かえって彼を苦しめることになった。
菊池は泣いていたが、これが嘔吐の辛さからのものなのか、それ以外からきた感情なのか、彼には全くわからなかった。