唯一の方法
回療所全体が、ピリピリとした緊張に包まれていた。それは、招かざる客、庵羅が訪院したためであった。
菊池は仏押のお膝元である常世の研療院に併設されている回療所に収容されていた。ここに菊池の収容が速やかに認められたのは、神火に相談された仏押の政治的な画策が大きかったが、庵羅も蔵瀬も特に反対を示さなかったことも関係していた。
仏押の菊池への熱の入れようは異様でさえあり、自ら出向いて彼の回療を指揮するほどだった。しかし老人の熱意に反し、菊池の容態は悪化する一方だった。
そんな折りに、突然庵羅が訪れたのである。回学院と研療院の争いが表舞台に晒された今、回学院を率いる庵羅の訪院は、研療院を震撼させるに十分だった。
仏押は黄持とともに庵羅に面会することにした。
「仏押様、菊池の具合はいかがでしょうかな?」
庵羅は凧形の敬礼を行いながら尋ねた。
「かかか。庵羅どのがワザワザご足労いただくほどのことはありますまい。奴は順調に回復しています」
いつもは、どちらかというと軽薄な印象を与える庵羅だったが、今日の彼は真剣な面持ちを崩さなかった。
「嘘をつくんじゃない」
鋭い眼光から放たれたその声には、他の者を圧する響きがあった。
「彼が回術や薬術などで回復するはずはない。奴は死にかけている、そうでしょう?」
仏押は垂れ下がった瞼の下から彼を睨みつけた。お互いに数多の戦いを潜り抜けてきた瞳が交錯した。
「一体、どのような御用向きでいらっしゃったのかな?」
「私にも是非、治療の協力をさせて頂きたいのです」
庵羅は、張りのある、穏やかだが威厳に満ちた声音で話していた。
「彼は幕多羅のそばの遺跡から突然現れた。何故この男がそんな所にいたのか、何故この男はこのような状態で生きていられるのか、その質問に答えられる者は誰もいません・・・私以外には」
庵羅の瞳が鈍く光った。彼は明らかに東洋人だったが、その瞳は茶とグレーの中間色で、光の反射により緑やオレンジなど複雑な輝きを示していた。
仏押は咄嗟に庵羅から視線を逸らした。無意識にだが、庵羅の瞳の中に垣間見えた闇の深さに畏怖を覚えたのである。
「どういうことですかな?」
「まあ、この話はおいおいするとして、私は彼のことは彼以上に知っています。彼を助ける方法も」
「ほう、それは是非教えて頂きたい。あなたに・・・」
仏押の脇に控えていた黄持がつい口を挟んでしまった。そして仏押は、すぐに右手で黄持を制した。その時、彼の着物の袖が捲れ、棒状の前腕が露わになった。右腕は手首から切断され、傷口はケロイド状になっていた。そこに縫合痕はなく、まるで焼灼されたようだった。
仏押はゆっくりと腕をしまうと庵羅に向き直った。
「なるほど。確かに貴方のおっしゃる通り、奴の病状は芳しくはありません。発熱が続いていて、意識はありません。残念ながら、このままでは早晩死ぬでしょう」
庵羅は髪を弄りながら、にこやかに頷いた。その時、長髪の下から左の頬に大きな傷が見えた。
「色々と思うところがあるでしょうが、今回のことは研療院も回学院もありません。私自身の希望です。私はまだ菊池に死なれては困るのです」
仏押はしばらく考えていたが、深々と頷いた。
「うむ、わかりました。それでどうすれば奴を助けられると?」
「既にご存知の通り、奴はアエルはあるのですが、『芽』は持っていません。ですから、正確には『共生者』ではないわけです。考えて下さい。我々にもそのような次期があったはずです」
「成人前のことですね?」
黄持は答えた。
「そう。彼は成人前なのです。それなら簡単だ。同じように『聖餐の儀』を行えばいいのです」
「我々もそれは考えました。しかし、あんな状態で耐えられるでしょうか?」
黄持が尋ねた。彼は仏押に、庵羅同様、『聖餐の儀』を行っては、と進言したことがあった。しかし慎重な仏押の懸念を払拭するほどの自信がなかったために、強くは押さなかった。
「ええ、大丈夫です。彼の身体はそんなにヤワではありません」
庵羅は、自信に満ちた様子で返答した。
「しかし仮に『聖餐の儀』を行うにしても、この時期に殉床がいますか?」
黄持が再び尋ねた。
「それはご安心ください。私がここに連れてきました。幕多羅の女です。大変だったのですよ、許可を取り付けるの。でも彼には適当でしょう。知り合いの女で覚醒するのですから、さぞ効果があると思いますよ。とにかくまだ死なれちゃ困りますから」
彼は爽やかな微笑みを仏押達に向けていた。黄持は、この美しい男の笑顔に寒気を覚えた。