母の顔
菊池は生死の境を漂泊していた。レイヨの治療のために初期治療が遅れたことと、抗生物質が1瓶しかなく使用できなかったことから、腹部刺創は化膿し、敗血症となってしまっていた。
敗血症は別名、菌血症とも呼ばれ、血液内に細菌が侵入し増殖することで発熱、血圧低下、多臓器不全(多臓器機能障害症候群とも呼ばれる)を起こして死に至る病である。抗生物質が唯一の根治療法で、敗血症を疑ったら1秒でも早く抗生物質を投与しなければならない。
通常、AELウィルス感染者は、細菌感染症で死亡することはない。しかしそれは西暦世界で行われる抗生物質投与など適切な治療を受けているためであり、治療されなければ、または治療の開始が遅れれば、いかにAEL細菌が利己的防御を行ったとしても命の危険に陥る。
既にAELウィルス感染者の平均余命を超え、彼の身体には溢れんばかりのAELウィルスに満たされていた。更に逃亡時に身体を酷使したため体力がかなり低下していたことも重なり、回術を受けたものの効果は芳しくはなく、直ぐに危篤状態となってしまった。
3日後、レイヨは身体を動かせる状態まで回復したが、彼女が久しぶりに会った菊池は、見る影もないやつれようだった。回術や薬術でも解熱はできず、40度の発熱が続いて昏睡状態になっていた。
「タカヨシ。大丈夫?私よ。わかる?」
しかし彼女の言葉は、うなされる彼には伝わらなかった。
神火は決断した。
このままでは菊池は死ぬ。彼を見殺しにはできない。彼を助ける唯一の方法は、都の研療院に送ることだ。研療院には多くの回術師と薬術師がおり、設備も整っている。彼らなら助けられる可能性がある。しかし彼を都に移せば、捜索の手から彼を庇うことは不可能である。
神火は菊池を好いていた。また彼の内に秘めた力を見てみたかった。なんとか彼を自分の元で保護することができないか考えてきたが、このままここに置いておけば彼は必ず死ぬ。死ぬぐらいなら、捕縛されてでも命永らえた方が良い。例え捕まっても、神明帝は彼を殺す気はないのだ。
問題はレイヨだ。彼女だけ逃すわけにはいかない。二人とも助けることはできないのだ。
前触れもなく、神火がレイヨの面会に訪れた。彼女は彼を見るとベッドの上から微笑んだ。
「あ、神火さん」
「そのままでいい。按配はどうだ?」
「私は大丈夫です。手術も対したことなかったし」
「そうか。それは良かった。・・・実は大事な話がある」
「何のお話ですか?」
神火は咳払いを一つすると、ゆっくりと語り始めた。
「・・・菊池は、あのままでは助からない。軍回術師達は良くやっているが、彼らには治せないだろう」
いきなりの言葉に、彼女は呆然とした。それは、暫く瞬きをするのも忘れるぐらいだった。
「だって・・・だって、この前は大丈夫だって、大丈夫だって言ってたじゃないですか!」
彼女はいきなりベッドから起き上がろうとしたため、腹部に痛みが走り、うっと呻くと腹を抱えた。その瞳には当惑と悲嘆が渦巻いていた。
「大丈夫か」
神火は駆け寄ると軽く肩を抱いた。
「菊池の願いだ。まだ意識がある時に、彼は自分の病気が悪くなっても、君には言わないで欲しいと請願したんだ。だから私は従った・・・彼は医術師だ。自分の病気はある程度理解していたのだろう」
彼女の目から涙が溢れた。
「お願いです!なんとか、なんとかタカヨシを助けて下さい!お願い!お・・・」
神火はレイヨのすがるような目に、心をざわつかせた。彼の心のおくにある遠い記憶が呼び起こされるようだった。
「・・・方法がないわけではない」
レイヨはおもむろに顔を上げると、神火にすがった。
「どうしたら、どうしたらいいの?お願いします。タカヨシを助けて」
「彼を常世の研療院に移す。あそこは回療院の元締めだ。回術師も設備も揃っている。あそこなら助けられるかもしれない」
「それじゃ、すぐに移して下さい!お願いします!」
「ああ。手配は進めている。研療院の仏押に相談をしたから大丈夫だろう。だが君はそれでいいのか?君だけを逃がすことはできない。君は刑務所に逆戻りだ。今度こそ死刑になるかもしれないぞ」
「そんなの構いません。私はいいの。それよりもタカヨシを、タカヨシを・・・」
彼女は神火の胸の中で泣きはじめた。彼は彼女の震える身体を抱きしめていた。彼女は、自分を生贄にする決心をしたのだ。神火には、この女の自己犠牲を理解できなかった。
「それで本当にいいのか?自分が死んだら意味がないだろう?何故、菊池のために、他人のために犠牲になるのだ?」
彼女はゆっくりと顔を上げた。顔は神火の眼の前にあった。
「私はあの人を愛しています。できればあの人と一緒に生きて行きたい。でも、あの人が死んでしまった世界は、私には意味はありません。意味がない世界なら、生きていても仕方が無いでしょ?だから、あの人が、タカヨシが生きていてくれることが、一番大切なの。それは自分の命より上なのよ」
レイヨは涙を流しながら、微笑んでいた。遠い記憶が現実の光景と重なった。彼はこの笑顔を見たことがあった。
母の顔だった。
あの時、父の葬儀が終わったあと、神火は父の墓前にいた。
「父上、私は軍に入ります。私はどうしても母上を許すことができません。貴方のような、広い心を持つことはできそうにありません。許して下さい」
その時、背後から泣き声がした。振り向いた彼は、喪服に包まれた母を見た。母は棒立ちのまま涙を流していた。
「母上・・・」
彼も力なく立っていた。
雨が降り始めた。
しかし、彼らは見つめ合ったまま、無言で立っているだけだった。辺りには、サラサラという雨の音が響き、彼等の身体を濡らしていった。しばらく後に、たまらなくなった彼が口を開いた。
「母上、雨に濡れますとお身体にさわります。早くお帰り下さい」
「貴方は・・・貴方は、帰らないのですか?」
母はつっかえながらも返答した。声は、霧雨の音にかき消されそうなぐらい細かった。
「私は、私はこのまま師団本部に向かいます」
彼女は突然走り出すと、彼の身体にすがりついた。
「貴方は、貴方は軍属になるというのですか?この母を捨てていくのですか?」
母の顔を久振りに間近で見た。美しい女だったが、目尻や口元には深い皺が刻まれ、生きてきた年月を感じさせた。
「そのようなことは、決してありません。私は私の適職と考えて軍属に志願したのです。何故、私が母上を捨てましょうか」
母は子を見つめてゆっくり微笑んだ。髪は雨に濡れて額に張り付き、眼は涙に濡れ、化粧もかなり落ちていたが、美しく温かい、しかし悲しみも帯びた笑顔だった。
「ありがとう、神火。他人が何と言おうと、貴方は私とお父様の子です。私はお父様が亡くなった時、この世に何も無くなってしまった様な気持ちになっていました。生きていても仕方が無いと。でも、すぐに自分を戒めたのです。・・・私にはまだ貴方がいます。貴方は私の全てなのです。この母の気持ちだけは忘れないでいて下さい。どんな時も、貴方を見守っています」
この時の彼には、母の気持ちは理解できなかった。ただ母を重く感じ、母から離れたい一心だった。そのため母とは、あれから一度も会ってはいなかった。しかし常に彼の心の中心には、母の笑顔があったのだと、神火は今気がついた。そして目の前で泣いている少女の顔と重なっていた。
「すみません・・・母上、すみません」
彼はレイヨを抱きしめながら涙をこぼしていた。
翌日、都から菊池の迎えが到着した。