不意打ちの方法
まるで夕刻のような暗さの中、テルネは湖を目指して注意深く歩いていった。
墮人鬼に殺された屍体は、全て一撃で屠られていた。ほとんどが不意打ちで、反撃をした形跡はない。これだけの人数に気付かれずに包囲から逃れ、再三不意打ちを喰らわすことができるとは、いくら奴が優れた感覚を持った生物だとしても、到底信じられる芸当ではない。
しかしたった一つだけ、奴が一撃離脱戦法を成功させる方法があることに彼女は気づいていた。
少年は動きが取れなくなっていた。いつのまにか厚い雲が空を覆い、辺りは薄暗くなってきていた。湿度が急激に増し、空気が粘ついていた。降雨が近い。
「早く帰らなくちゃ」
だが湖に辿り着いた途端、彼は周囲の殺気に圧倒されてしまった。
「怖いよ、母さん」
彼はまだ12歳である。猟りに秀でた才能が有るとはいえ、精神的にはまだ子供だった。彼の鋭敏な感覚は、大人達の阿鼻叫喚を察知していた。湖畔にある窪地に身を隠して、彼は耳を塞ぎながら泣いた。
「誰か、誰か助けて。父さん」
しばらくして、コウラからの虫呼が再び点呼を求めてきたが、テルネは虫呼を吹かなかった。
吹いてはいけない。
奴が完璧な不意打ちを成功させる唯一の方法。
それは虫呼を聴き、理解すること。
コウラは平文で虫呼を使っていた。軍事行動では符号付きが普通のため、テルネは始め戸惑ったが、相手が獣なのだから当然と考えていた。しかし、奴に虫呼が聞き取れるとしたら。そしてその内容を理解できるとしたら、全ての謎は解決する。
敵が貫匈人、または知性をもつ墮人鬼だったら。
作戦前の状況説明でコウラは、
「墮人鬼に知性は認められない」
と言っていた。実際、貫匈人以外に高度の知能を持つ獣は存在しないことになっていた。一部、一つ目種のように、他の仲間を統率して猟りをする獣が存在していたが、知能は低く、ただ集団で襲うのみである。それもやはり10年前に絶滅したはずだった。
偶然ではない。
コウラの行動にも注意しなければならない。
命令違反でも虫呼は控え、地理的に優位に立てる湖岸周辺に移動すべきなのは明白だった。
彼女は周囲の気配に細心の注意を払いながらゆっくりと前進した。すでに『猟る者』から『猟られる者』に己の立場が変位したことを認識していた。
そして厚い雲から大粒の雨が降り始めた。
少年は辺りを見渡した。先程はあれほどの殺気に満ちていたというのに、今は静かだった。雨足は強いが、何もいない。何も感じない。
今なら逃げられる。
少年は、降り始めた雨によって足場がゆるくなった湖の畔を、ゆっくりと歩き始めた。彼は気がつかなかったが、彼のすぐ傍には、本隊にいた二人の渦動師の屍体が横たわっていた。屍体は身体の一部がそれぞれ欠損していたが、出血は認められなかった。