止血
菊池はこの混乱を逃亡の好機と考えていた。房軍も黒装束も死力を尽くして闘っていた。どちらが勝っても、無事には済むまい。今のうちになるべく遠くまで逃げるのだ。どうせ蘇芳に帰れば、レイヨは殺されてしまう。敵は何者なのかはわからないが、このまま手をこまねいていても仕方がない。一か八かやるしかないのだ。蘇芳刑務所は南だが、敵はそちらを固めている。北側は手薄のようだ。北に向かえば山道がある。そこまで逃げればなんとかなるだろう。
南で渦動光が見えた後から矢の雨が止んだ。神火が弓兵を始末したようだった。
「レイヨ、逃げよう。走れるかい?頭を低くして、俺の後についてくるんだ」
二人は茂みの合間を、姿勢を低くしながら北に向かって走った。途中で敵に出くわすこともなく、簡単に北の山道にたどり着いた。二人はそこで休むと辺りを見渡した。細い山道は南北に比較的真っ直ぐに伸びていて、周囲は草木に囲まれて見通しは悪かった。菊池はレイヨの手を取ると、
「さあ、もう少し離れよう」
と北に向かって歩きだそうとした。しかし山道の脇から三人の黒装束の男達が剣を構えて出てくると、彼らの行く手を阻んだ。
「しまった、罠だ!」
しかし気がついた時には遅く、男達は彼らに襲いかかってきた。菊池はガムシャラに正面の男の手にしがみついた。
「レイヨ、逃げろ!」
「こ、こいつ、離せ!」
菊池に組み付かれた男は、彼を振り解こうともがいたが離れず、腕も捕まれて剣を振るうこともできなかった。
「この野郎!」
男は菊池に頭突きを加えた。鈍い音が響き、激しい衝撃がダイレクトに菊池の脳髄を襲った。
「ぐっ!」
眼の前に火花が散った。意識が飛びそうになったが、彼は懸命にこらえると、黒装束を掴む腕に更に力を込めた。彼の額は割け、出血し始めていた。
「レイヨ!は、早く!」
「でも!タカヨシ!」
彼女には彼を置いて逃げ出すことなどできず、オロオロと佇んでいるだけだった。
「離せ、こいつ!おいお前ら、手を貸せ!」
他の男達は、菊池が仲間に近すぎるために剣を使うのをためらっていたが、仲間の声で我に帰ると、すぐに引き剥がしにかかった。黒装束の一人が菊池の横腹を強打した。
「うっ!」
怯んだ所で同じ所に蹴りが入ると、菊池は苦しそうに前のめりになり、思わず手をはなしてしまった。腹部の蹴りは彼の呼吸を数秒止め、彼は酸欠で周囲の状況が掴めなくなっていた。
「こいつ!死ね!」
隙だらけの菊池の腹部めがけて、しがみつかれていた男は剣を突き出した。
グサッ!
菊池の腹部に剣が突き刺さった。
神火は8人目を倒した時、北の方で女の声を聞いた。悲鳴に近い声色である。
「まさか北に逃げたのか?あからさまな罠だが気づかんのか?」
神火を倒すには奇襲しかない。南は彼らの目的地であるから、進行方向から出鼻を挫くのは常套手段だ。問題は、神火は包囲殲滅が困難な相手であることだ。彼を包囲しようと姿を見せれば一瞬で組織粒子に変換されてしまう。事実、今回は包囲はされていない。あからさまに北側が開けられていた。そちらに伏兵のいる可能性が高いのだ。
「手間のかかる奴らだ」
神火は北に向かって走り出した。後背から彼を追う複数の人間の足音が聞こえてきたが、彼は無視をすると、悲鳴の聞こえた辺りに渦動波を放った。
菊池は我が目を疑った。
「な・なんで」
「・・・タカヨシ」
レイヨは菊池に抱きついていた。その身体は彼の胸の中で細かく震えていた。彼女の背中には剣が刺さり、それは腹部を貫通し、菊池の左下腹部にまで達していた。
「バカな女め」
敵は彼女の背中に足をかけると、剣を抜き取った。菊池を下に、二人は抱き合ったまま大地に倒れた。
「レ、レイヨ!大丈夫か?何故?」
菊池に上から抱きついている格好のレイヨは、顔を上げると苦しそうに、しかし微かに笑を含ませながら答えた。
「・・・タカヨシは・・・大丈夫?私も・・・あなたの役に・・・たったかな?」
「ああ、大丈夫だよ、ああ、神様!なんで、なんでこんなことに!」
「よかった。・・・タカヨシが・・・無事で」
彼女の血液が彼の腹に降り注ぎ、彼等の腹部はお互いの血液で真っ赤に染まった。剣を引き抜いた黒装束の男は、ゆっくりと菊池達の元にやってくると、剣を逆手に持ち、無言のまま大きく振りかぶった。菊池はレイヨを抱きしめると身構えた。
「レイヨ、ごめん」
その時バリバリと、まるで雷鳴のような音が辺りを包み、枝や葉が大量に彼らの上に降ってきた。菊池達の傍にそびえていた木の上部3分の1が瞬時に消滅したのだ。神火が放った渦動波である。男達はビクリとして南を見ると、神火がこちらに向かって走って来るのが見えた。
「神火だ!奴がきたぞ!」
奇襲が失敗した以上、山道のような見通しの良い場所で神火と戦うのは自殺行為である。男達のリーダー格が合図を出すと、敵は逃げ去っていった。
「レイヨ!」
菊池は枝木を振り払いながら起き上がると、レイヨを仰向けに寝かせ、腹部を確認した。右側腹部から、ドクドクと湧き出るように、大量の血液が噴き出していた。彼は急いで両手で傷口を圧迫した。
「うっ」
彼女が微かに呻いた。菊池の指の間から大量の血液が滲み出てくる。
「まずい!動脈出血か!」
「タカヨシ・・・私はOKキツネだよ。あなたが・・・助かって・・・よかった」
レイヨの声は震え、顔色は蒼白になってきていた。失血が激しい。間も無く神火が菊池の元にやってきた。
「大丈夫か?」
「何か止血するものはないか?」
菊池はレイヨの腹部を圧迫しながら言った。
「ま、待て、確か医術道具が少しだけあったはずだ」
神火は部下が野営道具を持っていたのを思い出した。急いで道具の入った鞄を取ってくると、菊池の前に開けた。中には消毒薬や包帯、ガーゼ、ハサミなど救急キットが入っていた。これは房軍の軍用緊急医術箱である。菊池はガーゼの袋を開けて取り出すと、レイヨの創部に当てて止血を続けた。
止血の基本は圧迫である。血管を圧迫して血流を落とすことで、出血量は減少し、血液凝固がしやすくなるのだ。様々な方法があるが、今菊池の行なっている直接出血部位を圧迫する直接止血法が最も有効で、出血の95%を止血できると言われている。しかしレイヨのように腹部に深い傷を負った場合は、腹部の血管損傷部位まで圧迫できず、止血困難な可能性が高い。そうなると開腹手術しかない。しかしここで開腹止血など出来ない。麻酔もないのだ。
「神火、渦動でなんとか止血できないか?」
「この娘は適応者だ。アエルが無ければ回術は使えない。やれることは、傷口を渦動波で粒子化することぐらいだが、腹に大穴が開くぞ。そうなれば結局助からん」
「畜生!なんとか、なんとかなる筈だ!落ち着け、落ち着くんだ」
菊池は医術箱の中を必死で探した。しかし手術道具はない。例えあったとしても、麻酔が無ければ下手をすれば痛みでショック死だ。輸血、最低でも輸液セットがあれば時間を稼ぐことができるが、それもなかった。ガーゼの圧迫を緩めて創部を確認したが、大量の血液が溢れ出してきた。間違いなく動脈出血であり、菊池は絶望感に満たされた。このままではレイヨは助からない。
「タ、タカヨシ・・・わ、私、貴方と会えて、し・・・」
彼女の声はかすれ、最早口から漏れる空気と化した。長い睫毛がわななき、ゆっくりと瞳が閉じられていった。
「レイヨ!死ぬな!レイヨー!」
その時、菊池は神火に肩を掴まれた。
「おい、これ使えないか?『止血』と書いてあるが」
菊池は神火に圧迫を代わらせると、その小さな袋を奪い取った。しかし血だらけの手で慌てて掴んだため、袋に書かれた注意書きが血に汚れて見えなくなってしまった。菊池は服で血液を拭い取ると注意書きを読んだ。
『止血糖』
と書かれた袋には注射器の様な硝子製の筒が入っており、中にボソボソの粉ミルクの様な粉末が入っていた。
「Celox™️(セロックス )か!」
Celox™️は甲殻類の甲羅の成分であるキトサンという多糖類から作られた止血剤である。プラスに荷電したCelox™️はマイナスに荷電している赤血球と結合し、膨張しながら互いに結合してゲル状の凝血塊を作成して止血する。生理的な止血機序とは異なる方法での止血であるため、患者の状態に影響されない。更にCelox™️は、体内に入っても速やかにグルコサミンに分解される。グルコサミンは体内にある物質であり安全である。軽度の出血なら数秒で、重度の出血も3分で止血することが可能である。驚くべきことに、吹き出している動脈出血も止血可能であると報告されている。2010年頃には実用化されており、アメリカでは軍で使用されている。
「レイヨ、痛いけど我慢できるか?」
レイヨは弱々しく頷いた。彼女の眉間には深い皺が寄り、唇を噛み締めて痛みに耐えていた。菊池はレイヨの身体を抑えると、『止血糖』の入った注射器をレイヨの刺創に差し込んだ。
「うう」
彼女の身体は痛みのために弓なりになったが、菊池と神火は必死で押さえつけた。ズブズブと菊池は更に深く注射器を差し込んだ。血液が創部から噴き出た。そして奥から手前に撒き散らす様に『止血糖』を散布した。彼は注射器を抜き取るとガーゼで再度圧迫止血を行った。
「頼む!止まってくれ!頼む!」
菊池は血の滴るガーゼを抑えながら、心から祈った。
神様、仏様、イエス様、誰でもいいからレイヨを助けてくれ!
何でもするから、後生だから願いを聞いてくれ!
しばらくすると、出血はみるみるうちに減少してきた。
「やった!止まってきた!やったぞ、やったぞレイヨ!」
レイヨは薄く眼を開けると微笑んだ。顔色は蒼白であった。
菊池は止血を確認すると、創部を消毒し、サラシで腹部を強く締めて固定した。本当は傷口を縫合したかったが道具がない。抗生物質は一瓶あり、『青』と書いてあった。菊池の知る限りこの世界では、抗生物質は色で分けられているようだ。この『青』が最も見かける抗生物質で、用途により『赤』や『黄色』など複数存在している。彼にはまだ使い方がわからないが、ここには一種類しかない。多分ペニシリン系に近いのだろう。瓶には白い粉末が入っており、一瓶が一人分だった。抗生物質と自分の解熱剤を彼女に飲ませた。また、ぬるま湯に砂糖と塩を溶かして与え、なんとか200ミリリットルほど飲ませることができた。やがて彼女は眠り始めた。