シコーの罪
菊池はすぐに対岸に向けて叫んだ。
「おおい、綱を切れ!切るんだ!」
それを聞いてシコーは叫んだ。
「嫌です!そんなことは出来ません!」
「馬鹿野郎!いいから切れ、切るんだ!早くしろ!」
菊池の後を引き継ぐ形でレイヨも呼びかけた。
「シコーさん、構いませんから切って下さい!クナハさん、イドリさん、色々ありがとう!お身体に気をつけてくださいね」
シコーは対岸で泣き崩れて動けなくなっていた。しかしイドリはナイフを取ると、吊り橋のロープを切り始めた。
「イドリさん!やめて下さい!」
しかしイドリは無言のままナイフを動かした。シコーの隣にいたクナハも立ち上がると、イドリの横に並んでロープを切り始めた。
「クナハさん・・・」
シコーは涙を拭いた。そして彼も立ち上がると、二人と共に罪を担うことにした。
ロープは乾燥させたカズラをより合わせて作られておりかなり硬かったが、数分で1本が切断された。ガラガラと音を立てて柵と残っていた床板が谷底に落ちて行った。あと2本が残っていたが、人が渡るのは既に不可能だった。シコーは手に残った綱の切れ端をじーっと見つめていた。
何かが彼の中で弾けていった。
「みんな、ありがとう。頑張れよ!」
菊池は片手を上げて谷の向こうに挨拶をすると、神火に近づいた。
「それじゃ、とっとと刑務所に戻ろう。だが、なんとか彼女を助けてもらえないだろうか?彼女は帰れば殺される。頼む。なんとか彼女を」
菊池が目の前に現れて話し始めたため、神火はあわてて視線を外した。
「馬鹿を言うな。幕多羅の生き残りだぞ。そんな女をなぜ助けなければならん。おい、こいつらに縄をつけろ!」
神火は部下にそういうと先に歩き出した。
神火は菊池に再び会って、自分の彼に対する感覚を理解した。これは恐怖だ。神火は菊池を恐れていたのだ。彼の『6感』が危険だと告げていた。通常、人間には『5感:視覚・嗅覚・聴覚・味覚・触覚』が存在し、精神的な感覚は『6感』と呼ばれる。『虫の知らせ』などと呼ばれるものだ。共生者は通常の『5感』に加え『6感』を持っている。この感覚により、共生者同士は、個人差はあるが、近接すると相手の存在を感じることができた。この感覚は相手の存在だけを感じるのではなく、相手の渦動の強さや能力の優劣も感じ取ることができる。そして神火の『6感』が告げるのだった。
『こいつは強い』
『こいつは特別だ』と。
シコーは谷の端に座り込んだまま、菊池達が山道を戻って行くのを、惚けた顔で見つめていた。
自分は何のためにここまで来たのか。
多くの人々を犠牲にしたのは何のためか。
そして涙を流しながら笑い始めた。
「あは、あはは。へへへ」
彼の中で何かが壊れた。
「シコー、大丈夫?シコー・・・」
「おい、小僧、こっちを見ろ!マズイぞ、クナハ・・・」
自分は無力だ。
いつも何もできない。
今回もそうだし、患者が自分の目の前で死んでいく時もそうだ。そして、父母が死んだ時も・・・。
シコーは10歳の時に両親を亡くしていた。彼は房の国の佐久田の出身で、父親は回療院の雑役夫をしていた。回療院は地域唯一の、西暦世界でいう医系大学であり、付属の回療所を必ず併設している。
シコーは小さな時から、父親がもらってきた、いらなくなった注射器などの医療用具をオモチャにして遊んでいた。よく考えれば危険極まりない話だが、シコーの父親は雑役夫ながら研究補助員としての仕事をこなすほどの学識があり、早くから我が子に医術師としての教育を行っていた。
「いいかい、シコー。私達適応者は何故生まれてきたのか、わかるかい?」
「ううん。なんで?」
「考えてみなさい。なんでかな?」
「うーん・・・みんなで仲良くするためかな?」
「ははは。そりゃいい。そうだ。その通りだよ、シコー。私達は同じ人間だ。共生者も適応者もない。神様は人間が末長く仲良く暮らせるために適応者を作ったんだ。でも私達は弱い。だから医術が必要なんだよ」
「うん。僕は大きくなったら医術師になるよ。そして、お父さんやお母さんが病気になったら助けてあげるよ」
「そりゃ、頼もしいな」
シコーは父親を尊敬していた。
ある日、父に『誕生日の贈り物に聴診器が欲しい)とねだった。だが聴診器はとても高く、子供のオモチャとは呼べないものだった。父はさすがに苦笑いしていた。
そしてあの日。
その日はシコーの10回目の誕生日だった。
「お父さん遅いわね。急なお仕事かな?仕方が無いから先に食べようか」
母が、冷め切った、質素だが精一杯振舞ってくれた『ご馳走』を見て言った。
「嫌だよ。もう少し待ってようよ。だって、父さんはお祝いしてくれるって言ってたよ」
すると、誰か訪ねて来た者があった。母が応対に出ると、何やら玄関で話し合っていた。
「まさか!・・・そんな!ああ・・・なんで!」
「奥さん、しっかりして。とにかく行きましょう。サザキ様も待っています」
声は父の同僚のモノだった。シコーも何度か会ったことがあった。母が涙を拭いながら、
「父さん、チョット怪我して入院になっちゃったらしいの。でも、加減はいいらしいから、心配しなくて大丈夫だって。それでね、これから回療所にお見舞いに行くから、急いで着替えておいで」
回療所に着くと、父はベッドに横たわっていた。全身に包帯がまかれ、時々唸っていたが意識は無かった。
「お父さん!」
「あなた!」
母子は変わり果てた父にすがりついた。
「奥さん、大変申し訳ない。旦那さんの事故は全て私のせいだ」
長い白髪の若い回術師が、母に凧形を組んで礼をしていた。明らかに高位の者が、目下の者に礼を行うことは異例のことだった。彼はサザキと言った。当時の彼は英才の誉れ高き人物で、若くして回療院で研究室を任されていた。多くの学問に精通していたが、特に医術に感心があり、様々な発明をしていた。医術を研鑽する回術師は今でも珍しい。更に彼は適応者に対しても寛容であり、シコーの父の能力を見出し、研究補助員に抜擢したのだ。
後にサザキに聞いたことだが、父はサザキと吸入麻酔の研究を行っていた。そして研究計画の誤りのために、試料が爆発炎上した際に、身を呈してサザキを守ったために全身火傷を受傷したのだった。その日は父の仕事日ではなかったが、父からの申し出で臨時に仕事をしていた。最近は宿直も含め、臨時の仕事を多く志願していたらしい。
そして父は苦しみながら3日で死んだ。父の遺品の鞄からは、真新しい聴診器が出てきた。シコーにプレゼントするために購入したものだった。
母もその後を追うように病死し、シコーは天涯孤独になってしまった。母の死を前にしても、彼は何もしてあげられなかった。父の時もそうだ。シコーは父の形見の聴診器を握り締め、自分の無力さに泣いた。
自分だけ生き残ったのは、きっと自分のせいだ。自分に悪い所があるのだ。自分のせいで父母は死んだのだ。
「シコー君、大丈夫か?」
家を見に来てくれたサザキは、両親が死に、真っ暗な家の中にポツンと座っていたシコーを見つけた。
「サザキさん」
シコーはサザキに抱きつくと泣き出した。
「僕が、僕が聴診器を欲しいなんて言わなければ・・・僕のせいでお父さんも、お母さんも・・・」
サザキはシコーを抱く手を強めた。
「いいか、シコー君。君は何も悪くない。悪いのは私だ。恨むなら私を恨みなさい。自分の才にいい気になっていた若造を」
この後、シコーはサザキに引き取られた。そして医術の基礎を彼に教わり、医術師になった。彼は父の聴診器を使い、多くの患者をほとんど無償で診察した。それは患者のためでもあったが、自分が無力ではないことを証明したかったのだ。
しかし彼は未熟だったし、この世界の医術もまたしかりだった。眼の前で患者はドンドン死んでいった。
そして医術師としての誇りを失いかけていた時に菊池に会った。彼はシコーに夢を見せてくれた。彼と共に多くの人を助け、自分の存在意義を証明したかった。だから菊池を助け出すことに命をかけることができたのだった
。
しかし、その夢も自分の前から、またしても自分は何もできないまま消えてしまった。シコーの失意は大きく、彼の精神に深い傷を形成したのだった。
「あははは」
「シコー、しっかりして!シコー!」
クナハはシコーを抱きしめたが、彼の心は深い闇に包まれていた。