二人の涙
翌日の道程は上りが多く、菊池にはかなりキツかったが、他のメンバーはいつもと変わらぬ様に歩いていた。クナハは意地悪そうに笑いながらゆっくりとレイヨに近づいて行った。
「どお?昨日はちゃんと思いを遂げられたの?」
レイヨは、がばっと顔をクナハに向けると、耳まで真っ赤になりながら彼女の口を押さえた。
「いやん、もう、苦しいわよ」
クナハはレイヨの手から逃れると、茶化すような表情を浮かべた。
「へ、変な事言わないでください」
「ふーん。本当かなー?」
クナハの中年親父のセクハラもどきの質問に、レイヨは俯いて何も答えられなかった。しかし、クナハは直ぐに優しい、心底喜んでいるような顔つきに変わった。
「でも伝えることはできたんだろ?」
レイヨは頬を赤らめたまま、心からの笑みを浮かべて頷いた。クナハはレイヨの頭を優しく撫でた。
「良かったね、思いが届けられて。私もあやかりたいなぁ」
レイヨにはいなかったが、お姉さんってこんな感じなのかなと、思っていた。
「何をあやかりたいんですか?」
シコーが声をかけてきた。
「何でもないよ!乙女の会話に口を挟むんじゃないの!」
「え、乙女って?」
「がはは。青年よ、クナハはああ見えても『おぼこ』よ。精一杯強がっているが・・・」
イドリが高笑いしながら発言した瞬間、クナハの放り投げた岩が彼の顔面に直撃した。
「ぐあ!」
イドリがそのまま弾け飛んだ。
「え?『おぼこ』ってなんですか?」
「ぶん殴ぐられたい?」
クナハがシコーに振り返って力瘤を作った。
「・・・いいえ」
菊池とレイヨは手を握り合いながら爆笑していた。
昼頃、一行の前には大きな谷が現れ、行く手を阻んでいた。谷には吊り橋の残骸が架かっていが、橋床は殆ど無くなり、四本の主索のロープが向う岸まで延びているだけだった。ハンガーロープ(主索から垂直に伸ばされ、橋の床を支える綱)が格子状に柵を形成しており、切れたモノは主索にだらしなくぶら下がっていた。
「迂回すると2日は余分にかかる。どうする?」
イドリはみんなを見回した。
「あれなら綱を掴んで横向きに渡れば、渡れそうじゃないですか?渡りましょう」
菊池は皆に言った。
「しかし、お主は左手が効かないんじゃないか?渡れるのか?」
イドリは腕を組んで、菊池の包帯を巻いた左手を見ながら答えた。
「このぐらなら大丈夫だと思います。もう腫れも引いて余り痛くないですし、中指も動かせます」
そう言うと、彼は左手を握って見せた。今朝、クナハに包帯を巻き直してもらう時に、添え木は外してもらっていたのだ。我ながら恐ろしい回復力だ。西暦世界では、AELウィルス感染者の傷の治りが早いなんてことは聞いたことがなかったから、これもウエット・スリープの影響なのだろうか?しかしどうもそればかりではないような気が彼にはしていた。
満場一致で、迂回はせずに吊り橋を渡る事にした。そこで一人づつ順番に渡ることになり、初めにシコーが渡ることとなった。
「なんで私が最初なんですか?」
シコーはロープを掴みながらガタガタ震えていた。
「しっかりしなさい、男の子でしょ?」
クナハはシコーの背中をパンと叩いた。橋のたもとに立つシコーの身体は、ヨロヨロと前のめりに落ちそうになった。
「や、やめて下さい!で、でも、だ、大丈夫ですかね、この橋の残骸?」
「大丈夫だ。つい最近まで使われてたからの」
イドリは笑いながら言った。
「つい最近っていつのことです?かなり経ってそうですけど?」
「はて、20年くらい前になるかのお」
「そんなのダメじゃないですか!やっぱり・・・」
シコーは震え上がって後ろに後ずさった。
「いいから行けよ!あとは老いぼれと病人と女しかいないんだから、一番まともなあんたが試してみるしかないだろ!それともあたしに行けっていうのかい?」
クナハの眼が細く光った。この眼の時のクナハは危ない。
仕方なく、シコーは主索のロープに手をかけ、ハンガーロープから延びる柵に足をかけて、横向きにへばりつきながら渡っていった。足を一歩動かす毎に、橋全体がユラユラと揺れた。下を見ると優に20メートルはある。橋は揺れやすく、ブランコのように前後に揺れ出すと生きた心地がしなかった。シコーが次の足を進めると、足元の底板が谷に落ちていった。ゆっくりと回転しながら落下していく板を見ると、彼は引き摺り込まれるような感覚になり背筋が震えた。
「あわあわあわ」
それでもシコーは、30メートルほどの橋を1時間ほどかけてなんとか渡り終えた。
次はクナハが吊り橋に飛びついた。途中で何度か「ウギャー、ウギャー」言っていたが、シコーより早く渡り終えた。
「早いですね」
シコーは橋の揺れを抑えるために、綱を押さえながら、彼女に手を伸ばした。
「ありがとう」
彼はクナハの手を取って引き上げた。しかしクナハの身体は思ったよりも軽く、勢い余ったシコーは、後ろに倒れてしまった。
「あたた」
しこたま後頭部をぶつけた彼が頭をさすりながら眼を開けると、眼前に彼女の頭があった。彼女は彼の上に覆い被さるように倒れていた。気がつくと、確かに彼女の豊満な胸がシコーの腹部当たりに押し付けられている。彼女は顔をあげた。赤みがかったセミロングの黒髪が顔にかかり、彼からは彼女の顔は真っ赤な唇しか見えない。その下には胸の谷間が見えていた。
「だ・い・じょ・う・ぶ?」
彼女の濡れた唇が一語一語発した。
「は、はい」
彼は上ずった声をあげてしまった。
「ははは。もう、シコーちゃんのすけべ!」
クナハは彼女の太もものそばにある、強調さらたシコーの股間を指で弾いた。彼は声にならない叫びをあげ、のたうち回った。
シコーとクナハは、吊り橋の横に並んで座ったていた。
「もう、あそこ痛くない?」
「だ、大丈夫です」
シコーは顔を真っ赤にしながら答えた。谷の向こうでは、イドリが橋に摑まって渡り始めていた。そろそろ2時頃だろう。太陽は登りきり、風は少し冷たいが穏やかだった。
「私たち、天気には恵まれてますよね」
シコーは盗み見るようにクナハの顔を見た。しかし彼女はシコーには眼もくれなかった。
「そうね。晴れ男でもいるのかな」
クナハはアタフタしているイドリを見ていた。
クナハは変わったと彼は思った。
あの日から。
妙にはしゃいでいるように思えてならなかった。彼女ははしゃいだ後に必ず今のような、憂いを帯びた顔をするようになった。その横顔は鼻と顎が尖り、端正な作りで、かなり堀は深い。特徴である大きめの口と切れ長の眼は、はしゃいでいる時にも心から笑ってはいなかった。
「・・・すみませんでした」
「何が?さっきのは気にしなくていいのよ。男の子なんだから、当たり前でしょ?」
「いえ、そうじゃなくて・・・。マシカさんのことです。私がしっかりしていれば・・・あの時一緒にいてあげれば、死ぬことはなかったと・・・」
「ばかいってんじゃないわよ。あんたがいたって何にもならなかったよ。死人が増えただけさ」
「でも」
「いいから。変なこと考えないの。私はもう考えないようにしたから」
「嘘だ!嘘ですよ。あなたはいつも考えている。あなたは、あなたは・・・」
シコーは泣いていた。クナハはそっと手を伸ばすと、シコーの涙を指で拭ってあげた。
「本当に甘ちゃんね。あなたのこと、よくマシカがいってたわ。『甘ちゃんの坊主』って」
クナハは笑っていたが、シコーの顔に触れている指先は僅かに震えていた。
「でも、一番甘ちゃんはあいつだったのにね・・・。バカな奴だよ。死ぬこたあなかったのに・・・。人一倍怖がりだったのに」
クナハの瞳に僅かに曇りが現れた。しかしそれだけだった。まるで武者震いのように感情の波が高まったかと思うと、波が引くように冷静さを取り戻した。
「私、貴方が羨ましい。悲しい時に涙を流せる適応者が。貴方は、共生者との深い付き合いが少ないから理解できていないの。私達は心の底から悲しんだり、哀れんだりすることなんかないのよ。肉親が死んでも、友達が死んでも、一呼吸するだけで平気なのよ。どんなに口では装っても、悲しそうな顔をしても、涙は決してでない。涙なんか、欠伸をすれば簡単にでるのに・・・子供の時は散々泣いたのに・・・私達は墮人鬼と一緒。そう、鬼よ!人間じゃない」
クナハは自分の肩を抱いた。彼女はあえて自虐的行為を行っているのが、シコーにも分かった。何とか自分の感情を引き出そうとしているのだ。だが、共生者の感情など、突き詰めれば『怒り』が基本である。最終的には怒りとなり、その矛先は間違いなく彼女自身に向かってしまう。シコーはクナハの肩を抱くと、自分の方に引き寄せた。
「こっちを向いて下さい。あなたは自分を責めてはダメなんだ。私は・・・私は・・・何にもできない若造です。父親の意思とか偉そうなこと考えて医術師になっても、誰も救えやしない。マシカさんの時もそうだった・・・。そして、貴女のことも救えやしない。いつも、いつも一生懸命やってるつもりでも、ダメなんです」
シコーは彼女を抱きしめながら泣じゃくっていた。彼の涙が彼女の肩を濡らした。彼女の肩が震え始め、震えは全身に広がって行った。
「クナハさん、涙が」
シコーはクナハの変化に気がつくと、体を離して彼女の顔を見た。彼女の瞳からは大粒の涙が流れていた。
「あれ?涙・・・?私・・・私、泣いてるの?」
「そうですよ!泣いてるんです。バンザーイ、バンザーイ!」
シコーは泣きながら喜んでいた。二人は子供のように、大声を上げて泣いた。吊り橋を渡っていたイドリにも、反対側にいた菊池とレイヨにもその泣き声が届いてきた。菊池とレイヨには何がなんだか理解できなかったが、イドリは穏やかな笑顔で頷いていた。
「良かったな、クナハ。お前は良い男を見つけたの」