遊び
渦動波は物質の分解を行う兵器であると言うことができる。接触した物質はミクロの大きさに分解され、いわゆる『組織粒子』となる。分解に必要な力は接触した物質の分子の結合力に反比例する。つまり分子間力(この場合、ほぼファンデルワールス力と等しい)が強いほど多くのエネルギーが必要となる。喪失したエネルギーの分だけ渦動波は縮小し、全てを喰らい尽くした後に消滅する。分解された物質は、瞬間的に周囲の物質と再結合して拡散することになる。これが『組織粒子』で、多くは大気中の水分子や周囲のタンパク質と結合するため、白煙が上がるように見えるのだ。
分子間力を渦動波が吸収したわけではないため、組織粒子が形成された部位は発熱し、傷口を焼灼する。このため、渦動波で欠損した生物組織の断面は、組織粒子による血管塞栓と放出熱による焼灼で、ほとんど出血はしない。金属の場合は、今のように光が発生することもあり、放出されたエネルギーで周囲の物質が溶解することもある。
これらのことから、神火は自分の攻撃が外れた可能性を考えたのだ。
渦動波が作った白煙により視界が閉ざされた中、ヒトの悲鳴と、グチャグチャと何か柔らかいものが撒き散らされる嫌な音が広がった。
やはり堕人鬼は無事だ。彼にとっては必殺の距離だったはずだ。回避したのならば、恐ろしい反射神経だと神火は考えていた。不思議なことに、堕人鬼は彼を攻撃せず、周囲の他の所員達を虐殺しているようだった。あの不思議な眼をした男も無事ではすまないだろう。
神火が堕人鬼の動きに注意していた時、いきなり移動寝台が彼に向かって吹っ飛んできた。寝台には人間が二本の皮帯で縛り付けられていた。腹の真ん中当たりが大きく半球状に削り取られてほぼ上下に分断されており、寝台にも穴が空いていた。首は在らぬ方向に曲がり、両手と共に所在無くフラフラと揺れていた。ミナタである。
神火が辛うじて飛んできた移動寝台を横にかわすのとほぼ同時に、獣はその影から飛び出して鎌を真っ直ぐに神火の顔面に突きたててきた。神火は頭を捻って鎌の攻撃をなんとか避けることができた。顔の直ぐ横の壁に鎌が突き刺さり、彼の頬の皮膚を割いた。眼前に獣が現れ、神火は反射的に腰の剣に手をかけたが、抜かなかった。獣の肉片にまみれた口が大きく開き、神火の頭を喰らおうとした。神火は体をひねって獣から離れると、距離を開けて再び対峙した。周囲の白煙はやや和らぎ、4~5メートルほど離れた相手をなんとか視認することができるようになっていた。神火は手のひらで頬をこすって出血しているのを確認すると、それを舐めて嬉しそうに笑った。
「やるな、化物。私の体に傷を付けたものは僅かしかいない。褒めてやるぞ」
神火は心から楽しんでいた。彼の心は既にこの遊びの世界しか存在しなくなっていた。
******
シコーはシタラの死を間近にみて吐き気を催したが、なんとか我慢できた。そして逃げようとした所員の1人が襲われた。
「伏せて!」
シコーは菊池とレイヨの背中を押して共に床に伏せた。化物の主な武器は長い爪。ならば伏せた方がいい。刃物は振り回すのは簡単だが、下に伏せている人間を突き刺すのは難しく、かつ刺そうとすれば足が止まる。そして墮人鬼は、他の獣同様、動いているものに反射的に攻撃しているようだった。あとは踏まれないようにしながら、慌てずに階段室まで逃げればいいのだ。階段室の扉はすぐそこだ。扉は開け放たれている。その時、シコーは神火の攻性変換を見た。
「早い!」
そして光が当たりを満たした。白煙が上がり、瞬く間に視界が閉ざされた。
「今だ!」
シコーは菊池達と共に階段室に駆け込むと、煙の中を上に向かった。階段室は煙に満たされて、息ができないほどだった。彼らは姿勢を低くするために、四つん這いになりながら、這うように登っていった。煙に燻され、眼も鼻もグチャグチャになりながらも、彼らはなんとか一階に辿り着いた。
階段室や廊下は囚人達でごった返しており、所員の姿は見えなかった。彼らは人をかき分けるように、管理棟の正門まで無事に出ることができた。火は既に監房棟を半ば覆っていて、逃げ遅れた囚人達が窓から飛び降りているのが見えた。身体に火をまとった者は、必死に地面に身体を擦り付けて消火しようとしていた。あちらこちらから絶叫が聞こえていた。
「こんな・・・」
シコーは阿鼻叫喚の絵を唖然と見つめていた。自分達の行為で起こった惨劇なのだ。自分のせいで・・・。
その時、彼は後ろから強い力で引っ張られて我に帰った。クナハとイドリだった。
「なにしてるの!こつちよ!」
「マシカさんは?」
「あいつは・・・死んだよ・・・それより、早く今のうちに逃げないと!」
クナハにとって、マシカの死は確信に近かった。なぜだか理解できた。しかし悲しみはなかった。
正門の前には大きな車停めがが整備されていたが、そこには逃げ遅れた何台もの荷馬車がまだ停められいて、主人のいない馬車に繋がれた馬たちが、火炎の匂いに神経質そうに嘶いていた。殺された御者や囚人、そして所員の死体があちらこちらに転がっていた。開放されたままの正門から多くの囚人が逃げ出していたが、それを止めようとする所員は一人もいなかった。車止めの真ん中では、馬車を守ろうとしている一人の御者が、囚人達と果敢に戦っていた。
「イドリさん!こちらです!」
今、まさに細身の剣を囚人の首に刺していた御者が、イドリ達を見ると声をかけてきた。イドリが残っていた囚人を簡単に倒すと、彼らは二頭馬車に乗りこんだ。そして御者の鋭い鞭の音とともに、馬車は陥落した蘇芳刑務所をあとにした。クナハは馬車の窓から顔を出すと、遠ざかっていく刑務所を見つめていた。
******
神火は目の前で唸り声をあげている墮人鬼を見た。彼は純粋に驚いていた。腕の一部を負傷していたが、大したことはないようだ。奴はあの一瞬の間に、移動寝台を盾にしたのだ。馬鹿げた腕力だ。この狭い空間では墮人鬼の素早い攻撃をいつまでもかわしきれないだろうことは、簡単に予想がついた。神火は再び笑みを浮かべた。
「だが、狭さはお前だけのものではない。そろそろこの『遊び』に飽きてきたし、火勢も強い。決めさせてもらう」
神火は少し後ろに下がって間合いを取ると、渦動波を天井に打ち込んだ。一瞬で辺りが再び白煙で満たされ、視界が全く無くなった。パラパラと瓦礫が落ちてくる中、彼は渦動口の前にソフトボールぐらいの光球を作った。先程の渦動波はバレーボールぐらいの大きさだったので、それと比較するとかなり小さい。彼は渦動で作った光の玉、渦動球を、彼の前に放った。しかし球体は空中でフワフワと静止し、神火の胸ぐらいの高さで漂っていた。
「よいか、化物よ。いいものを見せてやろう。渦動波は何も飛ばすだけが能ではない」
凄まじい唸り声をあげながら、墮人鬼は神火めがけて飛び込んできた。その速度は人間のそれを大きく凌駕していた。鎌が神火を切断する為に恐ろしい速度で振り出された。しかし鎌はそこにいたはずの神火ではなく、ユラユラと浮遊していた渦動球に接触した。鎌の先端が白煙を上げ、光球と共に消失した。激痛が獣の身体を走ったはずだったが、痛みを味わう時間すら与えられることはなかった。
渦動球が消えると同時に、すうっと霧の様に墮人鬼の横に現れた神火は、獣の頭を鷲掴みした。
「これで終わりだ」
彼はゼロ距離で渦動波を放った。墮人鬼の頭部は一瞬で蒸発した。
ズシン!
そのまま化物の身体は床に沈んだ。
「まさか墮人鬼がここにいるとはな。とんだ休みになった」
神火は身体の埃を払うと、炎に背を向け歩き去って行った。