早贄《はやにえ》
神火と呼ばれた背の高い男は、階段室から出てくると、ゆっくりと周囲を見渡した。
「お前達はここの職員か?一体何が起きているのだ?」
男は渦動師の武装をしていた。肩には赤い狼の形の炎のマークが刺繍されている。常世師団渦動師部隊、『狼炎』の隊章である。
神火は常世師団の長であり、特に子飼いの部隊である『狼炎』は房軍最強の渦動師部隊と呼ばれ、向かう所敵なしと恐れられていた。彼自身も第一級の渦動師だった。神火は神明帝の従兄弟にあたる王族だったが、政治には興味がなく、もっぱら戦に明け暮れていた。それには理由があったが、今語るべき時ではない。
「貴様は回療師か?私を知っているようだな。これは何の騒ぎだ?」
神火は凧型を胸に作って敬礼しているシタカに尋ねた。
「か、神火様、は、反乱です!所員の一部が反乱を起こしました。所長も殺されて。私どもはなんとか逃げて来たのですが、追われています。どうかお助け下さい!」
シタカの演技は絶妙だった。そして彼の着ている回療師の服には、説得力を追加する要素があった。先程まで震えていたとは思えない。この男は本当に食えないと菊池は思った。
「反乱?どうしてそんなことが・・・」
ふいに彼は女を抱える男と眼が合った。その男、菊池の眼の奥に異様な光を感じ、神火の肌はざわめく様な異質な感覚に捕われた。このまま眼を合わせていては危険である、と自分の六感が訴えていたが、自分では視線をそらす事が出来なくなっていた。まるで森主に睨まれた野兎(蛇に睨まれたカエルの意)のように。冷汗が額から流れ落ちていった。
その時、菊池達の背後から、数人の傷ついた所員がやってきた。
「神火様!」
神火を見ると彼らはボロボロの身体を硬直させて、凧型を組んだ。彼らの出現により、神火は自然に菊池から視線を反らすことができたが、安堵か落胆か自分にも分からない、複雑な気持ちに動揺していた。しかし神火の動揺が癒えぬ間に、シタカは所員達を指差して叫んだ。
「こいつらです!神火様、奴らが反逆者どもです!助けてください!」
神火は所員達に右掌を向けた。彼にはシタカの話を疑う理由はなかったからだ。シタカは恐れるフリをしながら、階段室の方に近づいていった。
「お前達、それ以上近づくな!」
「お前、嘘をつくな!神火様、騙されてはいけません。そいつらこそ脱獄犯です!」
「なに?」
神火はシタカの方に視線を移したが、身体は所員達の方を向いたままだった。無意識のうちに、菊池が視界に入ることを避けていた。
「お前、どうなのだ?嘘をつくとためにならんぞ」
シタカは一瞬たじろんだが、直ぐに気をとり直すと、
「いいえ、奴らこそ嘘つきの反逆者です。なぜ回療師の私が嘘をつくのですか?助けて下さい!」
と懇願した。シタカは必死だった。こんな所で捕まるわけにはいかなかった。とにかくこの場を逃げ切ればなんとかなるのだ。こちらには、菊池という切り札があるのだ。
神火は所員達に向けていた手を下ろすと、軽くため息をついた。
「・・・まあ良い。どちらであっても私の詮議する所ではない。お前ら全員を上に連れて行けば良いだけだ。どちらも妙な真似はするなよ。私の力を知らん訳でもあるまい。やろうと思えば、お前らなぞ3秒で消滅させることができる」
シタカは心底震え上がった。
これはマズイ。とてもマズイ。
このまま上がれば確実に嘘がばれてしまい、逮捕される。
下手をしたら反逆罪で死刑かもしれないのだ。
周囲は埃と火災による煙にまだ満たされていて、依然として視界は悪かったが、呼吸には支障はなかった。しかし上の階はまだかなり燃えているようで、ここに長居するのが懸命ではないことは、誰の目にも明らかだった。
シタカは妙な叫び声をあげながら階段室に走り込んだ。
「おい!」
神火は一瞬、シタカの後を追いかけそうになったが、階段室の開け放たれた扉の向こうから殺気を感じ、反射的に後ろに飛びのいた。
「ぐぁっ!」
開け放たれた扉の先から、階段室の中に消えたシタカの叫び声が聞こえた。一同は一歩も動く事ができず、その場で階段室の暗闇を注目した。シタカのくぐもった呻き声が続いた後、ゆっくりと階段室から『何か』がシタカと共に現れてきた。シタカは『何か』に担がれているかのように、その正面に高々と持ち上げられていた為、その『何か』は、菊池達からははっきり見えなかった。彼の背中には『何か』の右腕から伸びている鎌が貫通し、真っ赤なシミがどんどん広がっていった。シタカは浮き上がった手足をバタつかせ必死で抵抗していたが、それは虚しく空を切っていた。その姿は、まるで枝に刺さった早贄のようであった。
「ごぶっ」
シタカは吐血した。
鎌の刺さっている腹の辺りには、深黒の体毛に囲まれた頭らしきものがあったが、それがユックリと上に伸びていった。明らかに異常な長さだった。しかし首が長いだけでなく、頭全体が前後に長い。頭部は体幹に格納するように、ピッタリとくっつけていたようだった。涎を蓄えた口が彼の眼前まで伸びてくると、シタカは至近距離で化物と眼が合った。
真っ赤な口。
真っ赤な眼。
そして真っ黒で剛直な体毛。
獣だ。まさに獣だ。
「は、ハハハ」
シタカは吐血して赤く染まった口を大きく歪めると、笑い始めた。
「ハハハ」
そして赤く濁った獣の眼が笑ったかのように僅かに細められると、一瞬後にはその大きな口がシタカの頭に噛みついていた。
シャクッ
獣はシタカの頭半分を噛み切ると、死体を神火の方に放り投げた。神火は難なくかわし、シタカの身体は壁に叩きつけられた。
ぶちゃっ
不気味な音を立てると、亡骸はそのまま壁に赤い染みを描きながら下にずり落ちていった。床に落ちたシタカの手足は、バタバタと小刻みに痙攣していた。
「墮人鬼!なぜこんな所に?」
神火は身構えた。しかし墮人鬼と呼ばれた獣は、神火ではなく、逃げようとした所員の一人に飛びかかり、シタカの体液がこびり付いている右手の鎌でその身体を薙ぎ払った。鎌は所員の背骨を砕き、肝臓と脾臓を上下二つに切り裂くと、腹部大動脈に致命的な損傷を与えてから体外に出た。鎌の刃先からは、所員の臓物から出た血汁が、尾を引いて流れていた。所員は一言も発せずに倒れた。彼はほぼ胴を二分され、数十分後に絶命した。しかし死因は焼死だった。
「功性変換!」
薄橙色の燐光が流れるように神火の腕を覆い、渦動口が開かれた。ここまで一連の動作が完成するまで、まさに一瞬のことであった。
「は、早い!」
床に伏せながら見ていたシコーは、神火の渦動口開放に眼を見張った。渦動師による戦闘は何度か見たが、渦動口の開放がここまで早い術師は見た事がなかった。
神火は直ぐに渦動を貯めると墮人鬼に向けて放出した。距離は約4メートル。必中の距離だ。
薄橙色の光を発する、神火が放出したエネルギー波は、墮人鬼に直撃した。周囲に光がスパークし、白い煙が大量に発生したため、数センチ先も見えなくなってしまった。しかし神火は急いで数メートル後ろの壁際まで下がると、渦動波は貯めずに周囲に意識を集中した。
「この距離でか?」
彼の必中の攻撃は外れたのだ。