涙の意味
マシカは眼を覚ました。
しかし眼を覚ましたすぐ後には、覚めなければ良かったと心から思った。俯せに倒れた彼の背中には、化物が腕を抜いた時にできた穴がポッカリ空いており、背骨は折れ、両足は痺れて感覚がなかった。周囲には血液が広がり、小さな池を形作っていた。彼は幸運、いや、不幸なことに、主要な動脈は奇跡的に損傷を免れていた。マシカのアエルは止血と除痛を可能な限り行っており、不思議と痛みは感じなかったが、脳内麻薬の影響で頭がぼうっとし、視界が定まらなかった。足はまるで感覚が無かったが腕はかろうじて動いた。
マシカは腕を使って身体を持ち上げると、首を思いっきりひねってなんとか後ろの檻を見た。獣は自分のことは忘れたかのように、檻の隅にうずくまって動かなくなっていた。彼の右側には、檻にセットしていた爆弾が、他の爆弾が入った袋上に乗っかっているのが見えた。マシカは一生懸命に腕を伸ばしたが届かなかった。
「なんで腹が痛くないんだろう?」
彼は失血のために血圧が下がり、意識が混乱してきていた。なんとか爆弾を取り、爆発させなければ。
「痛えかなぁ。やだなぁ」
彼は心を決めると、両腕に力を込めて爆弾に向かって匍匐し始めた。下半身は麻痺しているため、まるで芋虫のようだった。ズル、ズルっと体が擦れるたびに、腹部の傷に激痛が走った。
「ぐっ!やっぱり痛ぇか」
数センチずつ、ズルズルと爆弾に近づいていく。動いた場所にはナメクジの粘液のように、血液が帯状に床を染めていった。
「あと少し、あと少し」
しかしあと少しの所で彼は力尽いて腕に力を込めることができなくなり、床に倒れこんだ。
「あと少し、あと少し」
腕を懸命に爆弾に伸ばす。わずかに指先が袋の紐に触れた。紐を震える指先でゆっくりと引っぱった。上に乗っている爆弾を落とさないように、注意しながら。そして爆弾は彼の手の中に入った。
「やった。やれたぞ・・・でもなんで痛くないんだろう?・・・そうだ、爆薬させるんだ。早くしないと計画が・・・みんなが・・・」
マシカは両腕の中に爆弾の入った袋を抱えた。
「クナハ、シコー。すまねえ・・・ヨウエ・・・ヨウエ!お前の所に」
マシカの脳裏にニコニコと微笑んでいるヨウエの花嫁姿が浮かんだ。
彼は泣いてた。
それに気がついた彼は、自分の涙を指にとり、少し驚いたあと、心から安心したような顔になった。
そして爆薬の安全板に繋がる輪を掴むと思いっきり引き抜いた。
彼の身体は四散した。
*******
菊池の指は今まさに切断されようとしていた。2人の所員に押さえつけられ、床に這いつくばらされた彼は必死に抵抗したが、全く無意味だった。所長は剪刀を握りながら、恍惚の笑みを浮かべていた。
「指はやめてくれ!指は!」
「痛いのは一瞬だよ、菊池。それに、この後に9本もあるから、まだ頑張らないとな」
所長はハサミに力をかけた。彼のニヤついた口角からよだれが溢れてきた。
その時突然に菊池達のいる地下3階の天井が揺れ、ドカドカと火の粉と共に天板が落ちてきた。
「うわ!」
所長の頭に天井から落ちてきた大きな石片が直撃し、菊池には彼の頭頂部が扁平に潰れ、「ブッ」と音を立てて鼻と口から血液が吹き出すのが見えた。天井の破片や火の粉が彼に降り注ぎ始め、菊池は頭をかばいながら、急いで床に伏せた。轟音と振動が彼を包み込んだ。
どれぐらいの時間が経ったのだろう。周囲が静かになり始めると、菊池は折れた左手を庇いながら立ち上がった。パラパラと音を立てながら、彼の身体に積もった瓦礫が落ちていった。周囲は薄暗く、舞い立った埃で真白になっており、1メートルも視界が通らない状態となっていた。見上げると天井が落ちており、上の階の天井が薄っすらとだが確認できた。爆発か何かで、上の階の天井全体が崩落したようだった。
「何が起きたんだ?・・・そうだ、レイヨ!大丈夫か?レイヨ!」
******
突然、大きな爆発音と共に建物が大きく揺れた。更衣室の二人はテーブルの下に逃げ込んだ。突き上げるような揺れと共に、周囲のロッカーがバタバタと倒れ始めた
「爆発!」
クナハは身を隠しながら冷静に思考を巡らせていた。揺れはすぐに収まったが、辺りはメチャクチャに散らかっていた。
「マシカさんでしょうか?」
「いや、時間も早すぎるし、私のはこんなに威力ないよ。でもこれで騒ぎになる。門が閉められる前に脱走しなきゃ。いい、私達だけでやるのよ!」
「はい!」
二人は更衣室を出ると、急いで回療室の先にある病室に向かった。管理棟内は混乱しており、看守達が走り回っていたが、シコー達に気を止める者は誰もいなかった。クナハは廊下に置いてあったモップを逆さに掴むと、病室に繋がる扉をゆっくりと開けた。ここにはイドリと菊池のいる独居房があり、常に看守がいるはずだった。しかし看守はいない。クナハはモップを捨てると急いでイドリの房の扉を解錠した。イドリは座っていたベッドからゆっくり立ち上がると、嬉しそうにクナハの身体を抱きしめた。
「ありがとうな、クナハ。しかしお前ら、派手だな」
彼はクナハの尻を触りながら尋ねた。
「早く出ましょう。マシカに何かあったみたい」
クナハは彼の手のひらをつねって尻から離させた。
「いてて・・・奴なら大丈夫だと思うがな。ワシが見に行こうか?」
クナハは少しの間思案していたが、首を横にふった。
「いいえ、予定通りやりましょう。奴なら大丈夫よ」
クナハは袋から男性監房の鍵束を彼に渡した。その時、菊池の房を見に行ったシコーが帰って来た。
「イドリさん、菊池はどうしました?本当に亡くなったんですか?」
「ああ、奴か・・・可哀想にな」
「そんな・・・何のために」
シコーは覚悟はしていたが、現実を目の当たりにして呆然としていた。その時、クナハがシコーの頬を叩いた。
「はい、働く、働く。呆けている暇はないよ!シコーは地下牢に行って。せめて、彼女だけでも助けてあげなきゃ。いい、できる?」
シコーは深く頷いた。三人は急いで階段室に向かった。中にいた看守をイドリが難なく倒すと、クナハはシコーとイドリに必要な鍵を分けた。
「いい、まだ看守がいるかもしれないから気をつけるんだよ」
三人はそれぞれの分担に散っていった。
クナハとイドリは二階と三階の監房に行くと、鍵を次々と檻の中に放り込んでいった。
「鍵だ。早く逃げろ!」
彼等は囚人の力も借りながら解放していった。監房の数は200近く、空いている所もあったが、一人で行うのは時間がかかりすぎる。囚人は投げ込まれた鍵を使って自身で檻を開けると、バラバラに逃げ出していった。シコー達が監房に鍵を投げ入れ終わったころ、管理棟で複数の爆発音がした。シコー達が仕掛けた爆弾が爆発したのだった。爆弾は周囲に火の粉を飛び散らせ、可燃物に引火した。
「脱獄だ!」
「火事だ!」
蘇芳刑務所は大混乱に陥った。火災に加え、所員の10倍以上の囚人が襲いかかってきたのだから仕方が無い。それでも一部は抵抗していたが、管理棟に火の手が上がったのがわかると、所員達は中庭に逃げ込み、ベンチなどで身を隠しながら防戦するのが精一杯になっていた。蘇芳刑務所は、僅か30分でその機能を失った。