ヨウエ
マシカは村でも裕福な家に生まれ育った。生活には別に不満もなく、生まれた時から決まっていた、家の『跡取り』としての道を歩んでいた。18になったら嫁を娶り、正式に跡取りとなる。そして両親は引退する。子供が生まれ、自分が引退するまで30年余り、跡取りとして働き続けるのだ。それが自分の人生であると考えており、疑問もなかった。あの日までは・・・。
彼は運命のその日、結婚式を挙げていた。相手は隣村の娘で、やはり裕福な家庭で大切に育てられた『箱入り娘』である。マシカの村では『嫁入り』が普通で(この世界では『婿入り』も多く、ほぼ同数である)、嫁は親が決めることが多く、当人達の意思が介入する余地などなかった。彼も式の当日まで、未来の妻に会うことはできなかった。
昼過ぎ頃、嫁入りの家から、共の者を連れてカゴがやってきた。カゴから御簾が上がり、彼は初めて妻に対面した。伝統的な衣装に身を包んだ彼女は、少し痩せてはいたが、伏せ目がちな睫毛の長い美人だった。
「よしゃ!」
マシカは思わずガッツポーズをしてしまい、母親に後頭部を殴られた。それを見て、花嫁も静かに笑った。
祝言は滞りなく進んだ。村長など村の上役が集まり、代わる代わる、マシカよりも彼の父親に祝辞を述べていった。彼は苦々しく感じて顔を崩したが、花嫁はそんな彼を見てニコニコと微笑んでいた。その目には何とも言えない包容力があり、マシカは思わず笑い返した。
いきなり彼の目の前に荒々しく膳が置かれ、吸い物が周囲に飛び散った。
「おいおい、気をつけて・・・」
そこにはクナハが笑っていた。そして彼女は彼に耳打ちした。
「マシカごときがやったじゃん?」
彼女は賄いの手伝いに来てくれたのだ。
「だろ?」
マシカは得意気にクナハに答えた。彼女の家は貧乏な小作農家のため、マシカとは別の世界の住人だった。しかし昔、彼女達が村の地主のボンクラ息子達と揉めている時に助けてからというもの、二人は何となく気が会い、よく遊ぶようになっていた。彼女は気性が荒くて喧嘩っ早く、年上の彼のことをよくからかったが、金持ちのボンクラの一人である彼にとって、彼女の振る舞いや考え方は常に新鮮だった。もしかしたらマシカは彼女に恋心を抱いていたのかもしれないが、彼には生まれの違いを超えることなど思いもよらないことであった。
その時、村人の一人が息を切らせながら会場に上がり込んでくると、村長を探し出して何やら耳打ちをした。
「な、なんだと!」
村長は思わず声をあげると、膝元の繕を倒してしまい、大きな音が辺りに響いた。宴の喧騒が一瞬で消し飛び、視線が彼に集中した。
「あはは。こりゃ、失礼。皆さん、お気になさらず、続けて下さい」
村長は謝辞を述べ、出席していた村役数人にも声をかけると慌ただしく退出していった。マシカを含めその場にいた村人たちは、慌てふためく村長達の様子を見て馬鹿笑いをしていた。この時、彼はまだ知らなかったが、村に仁岐志率いる反乱軍が逃げ込んできたのだった。
新婦の名はヨウエと言った。彼女はやや神経質そうな見た目に反して、朗らかな性質の持ち主だった。そしてよく笑った。
「良かった」
祝言が終わって二人きりになった時、ヨウエが初めて口にした言葉である。
「何が?」
マシカが不思議そうに尋ねると、彼女はまたクスリと笑った。
「貴方が優しそうな方で。私、とっても不安でした。どんな方かもわからないんですもの」
マシカは彼女を見つめた。彼女も同じだったのだ。
「俺もだよ。どんな嫁が来るのかわからなくて。昨日は眠れなかった」
「で、いかがですか、私?」
マシカは顔を赤くしながら、彼女に口付けをした。
「凄く綺麗だ」
「ワンワン」
「うわ!」
「きゃあ!」
いきなり犬が二人の間に割って入ってきた。そしてヨウエに覆い被さってきた。ヨウエはそのまま仰向けに倒れてしまった。
「おい、ハツ!やめろ!おい!」
マシカはハツの胴体を掴んで、花嫁から引き剥がそうとしたが、ハツは彼女の頬を盛んに舐めていた。
「ふふふ。くすぐったいわ。お前、ハツと言うのかい?宜しく、ハツ」
ヨウエはハツを抱きしめた。ハツは嬉しそうに尾を振り、マシカは笑いだした。
しかし彼等の夫婦生活は長くは続かなかった。ニギシ軍が村に駐留して僅か3日で、房軍が攻め込んで来たのだ。村を包囲していた房軍の炸薬砲が火を吹き、村のあちらこちらに火の手が上がり、地響きが轟いた。マシカの家族や使用人は、奥の納戸に隠れていた。
「きゃあ!」
爆薬の炸裂の轟音に、女たちは悲鳴を上げた。ヨウエもマシカの腕の中で震えていた。家全体が軋み、天井から埃が降り注いできた。
「ヨウエ、大丈夫か?」
マシカの声に、彼女は微笑みを返した。
「大丈夫です。あなたとなら、怖いものなどございません。でも、ハツは大丈夫でしょうか」
避難の途中、ハツは爆発音で興奮して外に駆け出していってしまったのだ。
「大丈夫だよ。まさか房軍も犬まで殺さないさ」
その時、部屋の外で犬の鳴き声が聞こえた。
「ハツ!」
ヨウエはマシカの腕から抜け出ると、扉を開けて外に出て行った。
「ヨウエ!」
マシカは直ぐに彼女の後を追おうとしたが、父が扉の前に立ち塞がった。
「マシカ、やめろ!お前まで死んだらどうする!」
「ヨウエを助けないと」
「あの娘は大丈夫だ。直ぐにハツを連れて戻ってくる。それに、お前はうちの跡取りなんだ。自分の立場がわかっているのか」
「わかっているよ!」
マシカは父親を強引に扉から引き離すと、扉を開けて納戸から飛び出した。その時、轟音がマシカの背後で上がり、爆風が彼を吹き飛ばした。彼は直ぐに我に帰ったが、天地が逆さまになっていた。鼓膜が悲鳴を上げ、まるで水の中にいるような感覚に包まれていた。次に頭から血を流していることに気づき、頭痛が襲ってきた。周囲を見渡すと、納戸のあった場所は瓦礫と化し、火と煙が家全体を包んでいた。爆弾が直撃した。家族の死を理解する暇もなく、彼は妻を探すために、炎や煙を立てながら半ば潰れた我が家に駆け込んでいった。
「ヨウエ!ヨウエ!」
燃え盛る瓦礫の中をマシカは新妻を探して彷徨った。屋敷には無数の兵士の屍が横たわっていた。マシカの家は大きかったため、司令所の一つとして接収されていたからだ。姿勢を低くしながら煙を避けて進んでいったが、煙は彼の気管を刺激し、呼吸を妨げた。また上から炎や瓦礫が降ってきて、何度も彼は押しつぶされそうになった。
「ヨウエ!」
やっと見つけた彼女は、瓦礫に頭が潰されており、辛うじて着物から彼女と判別ができた。胸には動かなくなったハツが抱かれていた。
「うあー!ちくしょう!ちくしょう!ちくしょう!何故だ!俺たちが、ヨウエが何をした!」
マシカは自分が焼け死ぬことなど考える余裕もなく、その場にへたり込んだ。しかし涙は出なかった。そして呼吸もできないほどに苦しかった胸の痛みも、わずか数秒で、机に積もった埃を吹き払うように消えていった。
「何故だ!なんでなんだ!俺は悲しむこともできないのか!俺は、俺たちは人間なのか!」
彼は自らの胸を何度も何度も叩いた。そして自分の心を呪った。
******
「うがっ!」
菊池は口から多量の血液を吐き出し、その場で膝まづいた。
「こいつ!舌を噛みやがった!は、早く開けろ!ばかな奴め!」
所長は所員に命令して牢屋を開けさせた。所員の一人が菊池に駆け寄った。所長も牢の中に入って来た。
「早く口を開けさせないと窒息するぞ!こいつに死なれてはまずい」
所員が菊池の口を開けさせようとして彼の口元に指をかけた。突如、菊池は所員の指を噛みちぎった。
「ぐわぁ!」
菊池は口の中の指を床に吐き出すと、所長の胸ポケットのペンを抜き取り、彼を後ろから蹴倒して背後に馬乗りになった。そして彼の髪を引っ張って顔をあげさせると、所長の眼前にペンを突き立てた。
「それ以上近づいたら、この男の眼にペンを突き立てるぞ!流石の共生者様も、眼は再生できないだろ?」
所長は菊池の下でジタバタとしていたが、目の前にペンが現れると、それ以上は動かなくなった。所長の顔を抑えている彼の左手の小指の先からは血がしたたっていた。指を噛み切った血液を使っての芝居だった。菊池は指を噛みちぎられてのたうち回っている所員を顎で指すと、
「おい!こいつを連れて早く牢から出て行け。そしてシタカをここに連れてこい!」
と怒鳴った。所員たちはどうしたらいいか迷っていたが、
「お、お前達、こいつの言うことを聞くんだ」
と所長は声を引きつらせながら言った。所員達は菊池に指を噛みちぎられた男を牢から抱えて出すと、シタカを連れてきた。シタカの眼は泳いでおり、まだ正気に戻っていないようだ。
「おいシタカ。大丈夫か?」
シタカはぼーっとして天井の一部を眺めていた。
「おい、しっかりしろ!」
菊池はシタカの頬を殴った。しかし彼の瞳の狂気は消えることはなかった。そしてシタカは菊池を睨むと、いきなり飛びかかってきた。
「や、やめろ!シタカ!」
菊池は所長の上から弾き飛ばされ、シタカともつれ合いながら倒れた。所長は一目散に監房の外に逃げ出すと、それと呼応して所員が中になだれ込んできた。菊池はシタカを蹴り上げ、身体を低くして所員の間を抜けて外に出ようとしたが、所員の一人の蹴りが、彼の顔面を捉えた。
「ぐぎっ」
蹴りは鈍い音を立て菊池の頭を打った。彼の脳は衝撃により頭蓋内で大きく揺らされ、脳震盪を起こした。一瞬で意識が混濁し、彼はのめり込むように顔面から倒れこむと動かなくなってしまった。そして襟を掴まれ牢の外に引きずりだされた。彼の顔面は血まみれで、意識は朦朧としていた。
「菊池、きさまはとんでもない奴だ」
所長は自分の短い首をさすりながら菊池の前に座り込んだ。
「僕は・・・僕はどうなってもいい。レイヨを・・・レイヨを助けてくれ」
視界が定まらない中で、彼は必死に所長にすがりつこうと、左手を彼の足に伸ばした。
「汚い手をかけるな!」
所長は持っていた警棒で菊池の左手を叩き潰した。グシャっという音が地下に響いた。
「ぐがぁ」
菊池が痛みのために覚醒した。左手を抑える。
「きさまには死んでもらっては困る。だが死ななければ問題はない。もうこんなことが二度とできないように、お前の指を全て切断する。お前、指を切断したことがあるか?」
所長は合図をすると、所員から大きめの剪定ハサミのようなものを受け取った。
「私はこいつが好きでね。手癖の悪い囚人には、これでお仕置きをするんだ」
黒光りするハサミを握ると、菊池の顔の前で開閉を繰り返した。
「こいつでやるには少しコツがいるんだ。そのままだと固いから、前もって掌を叩き潰しておくんだよ。そして、切断する指を折っておくんだ。そうすると、実は出血も少ないし、動かすこともできない。そしてやられる方の痛みも少し減るんだ。まあ、自分にやられたことはないから、痛みが減るかは予想だけどな」
所長の目配せで所員が二人、菊池の左腕を動かないように固定した。
「今掌は叩き潰したから、指は動かんだろ?先ずは中指からいこう。根元からがいいな。中途半端はよくない」
そういうと、所長は菊池の中指を手で握り、軽く上に曲げた。テコの原理により、大した力をかけずに菊池の中指がボキリと音を立てて折れた。
「ぐあ!」
菊池が悲鳴をあげた。
「痛いか?菊池。だが、痛いのはこれからだよ」
所長は菊池の中指をハサミに挟んだ。