アトロピン
「あのう。所長。少しよろしいですか?」
ミナタは恐る恐る所長に声をかけた。座り込んで頭を抱えた彼は、鬼のような、しかし泣き出しそうな顔で、傍に立つミナタを見上げた。
「なんだ!」
ミナタは気圧されかけたが、なんとか持ち直した。以前の彼では考えられない行為である。菊池と接するようになり、彼は確実に変わってきていたのだ。
「実はおかしな事がありまして・・・」
「なんだ?ワシは忙しいんだ。ふざけたことを抜かすとクビにするぞ!」
「・・・実は・・・シタカさんのことなんです」
「奴がどうした!」
「さきぼどのシタカさん、妙じゃありませんか?今まで医術らしきことは、薬術以外にやっているのを見たことありません。それに研究ならまだしも、囚人が死んだぐらいであんなに慌てたり、自ら死亡宣告するようなこと、ありましたか?それに、自分自身で遺体を安置所に運んだんですよ?!」
所長は頭を掻く手を止めると考え始めた。
言われてみれば確かに妙だった。所長とシタカは3年ほどの付き合いだが、取っ付きにくい奴で、実務は部下に任せっきりのため、再三クレームが届いていた。
「初めに菊池の牢から助けを求める声が聞こえた時、2階の当直室に一緒にいた私には声の出処が何処かはわかりませんでした。でもシタカさんは真っ直ぐに菊池の牢に向かっていました。まだあります。死亡宣告が早すぎます。私には心臓マッサージどころか触らせてももらえませんでした。・・・まるで何か隠しているようです。お願いですから、私に菊池の身体を診察させて下さい」
「・・・だが菊池の身体からは生きてる『感じ』はしなかったぞ。あいつ、共生者だったよな?お前、何か『感じ』たか?」
「いいえ・・・でも、おかしくありませんか?」
所長は考えこんだ。果たしてそんなことがあるのだろうか?彼にはとても信じられなかった。
******
地下の割りには奇妙に空気の乾燥した安置所には、沢山のベッドが整然と並べられていたが、死体は一つもなかった。菊池はそのベッドの一つに寝かされていた。彼の顔面は蒼白で死んでいるようにしか見えなかったが、注意深く観察すると、胸郭がわずかに上下しているのが分かった。
シタカは菊池の腕に静脈注射を行った。ナス科植物から抽出したアトロピン(と類似の物質)である。菊池は彼に早い段階でのアトロピンの投与を頼んでいた。テトロドトキシンに効果はないが、副交感神経をブロックすることで、徐脈に対しては有効である。シタカの回術を信用してはいたが、医師として何かをやっておきたかったのだ。
シタカは菊池の身体を診察したが、まだ呼吸も僅かだが認められ、心拍もしっかりしていた。
「へー」
シタカは驚いていた。この毒を調合した薬師は天才的だと思った。呼吸筋麻痺の程度が絶妙だった。落ち着いたら、風船魚の毒について少し調べてみようと考えている時にふと我に帰った。
「イヤイヤ、急がなくては」
菊池の病態は安定しており、慌てる必要はなかったが、いつ追手がかかるか分からない状況である。早く菊池を起こして脱出したかった。
シタカは腕まくりをすると、菊池の回術に入った。彼は渦動師ではないため、渦動口は開かない。もともと、渦動口が開く回術師はとても僅かしかいないのだ。
「防性変換」
シタカは呟くと、両手を菊池の体に添えた。シタカの右肩にある樹状痕が青く光ると、彼の前胸部を抜け、左肩まで伸びていったのが服を通して見て取れた。
「代謝促進させます!さっきの『フリ』だけとはちがいますよ!そら!」
菊池に当てた両手のひらが青く光り、その光はまるで菊池の身体を貫いたように見えた。菊池の身体がビクビクと大きく痙攣すると、毛穴という毛穴から一斉に汗がしたたり落ち、モアモアと水蒸気が立ってきていた。菊池の呼吸がゆっくりと深くなり、眼元がピクピクいったかと思うと、イキナリ両眼が見開かれた。そしてその眼だけがグリグリと動いてシタカを向いた。
「分かりますか?まだ動けないでしょう?今やってますから待ってください」
シタカの回術の技量は優れたもので、ミナタとの差は歴然としていた。元々、回術は渦動師が戦闘で負傷した場合の応急処置から発生した回療であり、治療後には戦闘に復帰させる必要があった。そこで回術師達は、状況に応じて自身のエネルギーを注入して、患者の消耗を抑えた。菊池がシタカの治療を終えた後、動ける状態だったのも、全てシタカの技量のお陰だった。
「い、いかがですか?」
シタカは手を菊池から離すと声をかけた。シタカの声に力はなく、顔面は蒼白だ。かなり疲れているようだった。
「ああ、ありがとう。まだ幻覚剤が残っているようでクラクラするが、大丈夫だ。しかし君の技量は素晴らしい」
まず第一の賭けに勝ったのだ。
安置所と動物舎の間は施錠されていない扉一枚である。そして見張りは彼女の監房にいる者だけのはずだった。
「それでは、あなたはこの服に着替えて下さい」
シタカが差し出したのは、回術師の制服だった。
******
マシカは爆弾を入れた袋を担ぎながら、管理棟と監房棟の境界にある階段室の前にいた。階段室の扉を叩くと、扉の小窓が開き、中の看守が顔を出した。
「マシカか。なんだ?」
当番の看守は尋ねながらも扉を開けると、マシカを中に招き入れた。階段室は4メートル四方ぐらいの階段の踊り場で、正面には監房棟への扉があり、右手には上下に続く階段があった。左手の壁の中央付近には簡素なテーブルと椅子があった。
「巡回か?なんだ、その袋は」
看守はマシカの袋に気がついて尋ねた。
「お使いだよ、お使い」
袋を掲げて見せながら答えた。袋は所内で使われる雑嚢であった。
「地下の研究室にこれ運んでおけって」
「こんな夜中にか?」
看守は、少し不振な顔をした。
「実は夕方やるの忘れててさ。俺、5時で上がりだから、今のうちにやっとこうと思ってね。本当、そんなの奴らにやらせりゃいいのによ」
マシカは不貞腐れた顔で話すと、彼は同情してくれたようだった。
「ああ、確かにな」
早く行けと言わんばかりに看守は椅子に座り直すと、読みかけの雑誌に目を通し始めた。
******
菊池が服を着替え終わると、いきなり安置所の扉が開いて5人の男達が入ってきた。所長と所員達が先頭で、後ろにはミナタがいた。
「ど、どうなさったんですか所長?こんな所までいらっしゃって」
シタカは慌てながら、菊池を背に隠した。
「いや、なにね。少し気になることがあってね。手間はかからん。少し菊池の身体を調べさせてくれ。菊池の遺体はどこだ?」
所長は安置所のベッドや遺体がないことがわかると、シタカの後ろにいる男に注目した。
「シタカ。菊池はどうした?おい、そこのお前!当直ではないな?顔を見せろ!」
「そ、それは」
シタカは大量の汗をかいてシドロモドロになっていた。所員達は手に警棒を携えており、それを握り直す音が聞こえた。菊池は観念した。このままここで暴れても勝つ見込みはない。
「わかった、わかった。降参するよ」
菊池はシタカの背後から歩み出ると、両手を挙げた。
「菊池!」
所長やミナタらは驚いたが、直ぐに歓喜の面持ちに変わった。シタカの蒼ざめてワナワナと全身を震わせると、その場に崩れ落ちてしまった。
「わ、私は悪くない。私は悪くない・・・」
彼の眼は所長達の間を泳ぎまわり、焦点を失っていた。
「とりあえず、こいつらをそこの牢に叩き込んでおけ!」
所長は満面の笑みで命令した。