風船魚の毒
シコーとクナハが爆弾の設置を始めた頃、菊池は絶体絶命の危機に直面していた。
彼は地下3階のレイヨのいる牢の前で叫んでいた。
「レイヨ!レイヨ!そこにいるのか?レイヨ!」
菊池は監房の奥に向かって叫んだ。
「タカヨシ?」
奥に設置されているベッドから人影が飛び起きると、柵に駆け寄ってきた。
レイヨだった。
久し振りに見た彼女は、やや頬がこけて顔色が悪かったが、眼は輝いていた。
「タカヨシ!」
「レイヨ!助けに来たぞ!心配するな!必ず助けてやるからな!」
「タカヨシ!」
レイヨは柵から手を伸ばしたが、菊池には届かなかった。
「静かにしろ!お前達は奥だ!」
所員は菊池を警棒で小突くと、先に進むように促した。そして一番端の監房に放り込むと鍵を閉めた。
檻の前に立った肥満男が菊池に勝ち誇ったように話しかけた。
「菊池、とんでもないことをしでかしたな。お前は死刑になることはないが、仲間は、小娘も含めて全員死刑だぞ。ははは」
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菊池の窮状を説明するには、話を1週間前に遡る必要がある。
彼はシタカと供に脱走計画を練っていた。
シタカは薬術に精通しており、彼と話をしているうちに『風船魚の毒』という話が出てきた。フグだと菊池は直感した。ミナタに聞くとやはりフグだった。彼の地元でも珍味として食べる人がいるが、たまに当たる人がいるとのことだった。だが共生者は回術で治療が可能であるという。
フグ毒、テトロドトキシン。
人ならわずか2mgで致死量となる。摂取後30分から3時間で唇の痺れなどから発症し、呼吸筋麻痺により呼吸停止して死亡する。
古来から日本人の生命を最も奪ってきた自然毒の一つで、死亡率が高く、構造が安定しているため解毒剤もない。しかし蓄積性はなく、後遺症も認められない。菊池はアエルを持っているため、回術で治療が可能である。
西暦世界では、毒と薬の進歩は同時に進んだ。何故なら毒は薬であり、薬は毒であるからだ。両者の違いは使い方と投与量だけしかない。
しかしこの世界では、薬学はかなり発達していたが、毒物学は極端に遅れていた。それは主に2つの理由による。
1つ目は、共生者は毒に強く、腐食性の毒を覗くと有効な毒が少ないためだ。毒が毒として使えないのだから、発展はしにくい。
そればかりか、この世界の薬術師は、共生者の体質を利用して様々な猛毒を薬として広く利用していた。驚いたことに、青酸カリの3千万倍のLD50(半数致死量)を誇る世界最強の毒、ボツリヌストキシンも精製し、他の生薬と混合して薬として内服利用していた。西暦世界でも、顔面痙攣治療などのために患部に極めて少量を注射して臨床応用しているが、彼らは生薬でボツリヌストキシンの消化器症状を抑えることで内服させ、抹消筋肉の弛緩作用を利用して筋肉痛や神経痛の特効薬として利用している。致死量は1μg/kgとされるが、彼らは10倍以上を一度に内服する。流石に投与後は回術を施行しなければ死亡するため、回術師が治療の一環として利用している。トリカブトに含まれる猛毒のアコニチンも強心・利尿剤として利用され、こちらは家庭に置き薬として常備されていた。投与量は致死量の5~20倍である。
2つ目は、毒のレシピが貴重なためである。共生者を狩る暗殺者は、対渦動師用の独自の毒を利用していた。これは複数の毒による薬物の相互作用(drug interaction)により毒性を強めたもので、近世イタリアのボルジア家が暗殺に用いたと言われるカンタレラのように、多くは門外不出とされていた。
「シタカ、その『風船魚の毒』は手に入るか?」
「勿論。『風船魚の毒』は回術では余り使われませんが、私のコレクションにあります。一部の地域では適応者の囚人に飲ませて動きを封じたりしています。うちでは使っていませんけど。それと単独では普通は使いませんので、幻覚剤などと混ざっていますよ」
フグ毒と幻覚剤・・・。それは菊池にある薬を思い起こさせた。
「ゾンビ・パウダー・・・」
「ゾンビパウ・・?なんですか?」
「『生ける屍』を創る粉の事だ」
ハーバード大人類学研究者ウェイド・デイビスは、シュルツ名誉教授に依頼され、1982年ゾンビの調査にハイチに向かった。そこで、ボーカーと呼ばれる魔術師からゾンビ・パウダーを5種類得ることに成功した。
大学で鑑定すると、粉には20種類を越える動植物が使われていることがわかったが、その中の有効な生理活性物質の一つとして、テトロドトキシンが含まれていた。そしてデイビスは次のように仮説を立てた。
まず被害者は、ゾンビ・パウダーにより仮死状態にされ死亡したと勘違いされて埋葬(土葬)される。その後魔術師が急いで遺体を掘り出し、ゾンビのキウリ(ダツラ)などで作られた幻覚剤により、被害者を奴隷とする。被害者は幻覚剤の影響で朦朧としており、『生きた屍』と呼ばれるようになる。
彼はこの論文により、1986年ハーバード大から生物学博士の学位を受けた。ゾンビ・パウダーの真偽ははっきりしていないが、我が国でも、フグ毒で死亡した人が棺から起き出してきたという記録は多く認められる。
「なるほど・・・面白い」
菊池の説明に、シタカは余り驚いた様子は見せなかった。
「貫匈人みたいなものでしょうか」
「貫匈人?」
「胸に大きな穴が空いている化物です。死人がこの世に未練を残して死ぬと墓から出てくるといいます。まあ老人達の昔話ですけど。私も子供の頃に親に、『早く寝ないと貫匈人がくるぞ』と脅かされたもんです」
「それとは違うかな。多分、その貫匈人てやつは神様の一種じゃないかな」
どこの世界でも子供を脅かす化物は存在する。鬼やナマハゲなど日本でも多い。この手の化物は来訪神で、別に『悪魔』ではない。災厄を取り去ってくれ、福をもたらしてくれるのだ。この貫匈人も来訪神の一種なのかもしれないと菊池は思った。
「所でそんなもの、どうするのですか?」
「そりゃ、僕が飲むんだ」
「え!本気ですか?」
シタカは目を見張った。
「ああ本気だ。僕が死んだら、僕の身体はどうなる?」
シタカは少し考えてから答えた。
「そうですねえ、多分地下3階の遺体安置所に運ばれますよ。そして都の研療院に運ばれて解剖ですね」
「霊安室はレイヨの監房のすぐ隣だ。ところで『風船魚の毒』の正確な投与量はわかるか?」
「さあ、使ったことはありませんし、それはなんとも。ただ手に入れた薬術師に聞いてみればわかると思いますよ」
「その毒で仮死状態になったら、お前が死亡と診断してくれればいい。そして安置所に運ばれればこっちのもんだ。でもなんで地下が安置所なんだ?こちらには好都合だが・・・」
通常、遺体の搬送を考えて1階に霊安室を設置する。搬出用の裏口も併設されているのが一般的である。
「ここの不思議な所です。なんでそんな面倒な所にしたのか。ここは電気が来てますので昇降機が使えますから、遺体の運搬は楽なんですが」
「隠さなくちゃならない死体が多いからかな。それで遺体の搬送口はどこになる?」
「1階の奥です」
シタカは遺体安置所の横を指差した。丁度、管理棟と反対の端になる。
「奥には階段はありませんが、ここに運搬機があります。そこから守衛室に入り、直ぐに裏口にでられます。当然所員が常駐してますし、運搬機は鍵がないと動きません」
「鍵は手に入らないか?」
「それは無理です。係の者がしっかり管理してます。合鍵もありません」
シタカは手を振って不可能を示した。
「そうか。だが変装でもして階段から出れば大丈夫だろ?」
「まあ、回療院所属の我々は特別扱いされてますから。私ならなんとかなるでしょう」
菊池はポンとシタカの肩を叩いた。
「そしてめでたくここを出られれば、君は匙の国で地位と名誉を手にいれる。匙の国は金持ちらしいぞ」
シタカは夢を見るようににこやかに空を仰ぎながら、薄笑いを浮かべた。
彼は菊池を盲信していた。しくじった時に自分が受けるかもしれないリスクにも注意は向かず、ただ自分が成功した姿だけが瞼に浮かんでいた。
後日、シタカは知り合いの薬術師から『風船魚の毒』についての詳細な情報を仕入れてきた。
シタカの言っていた通り、この毒は複数の生薬を混ぜて作成されており、『風船魚の毒』単独ではない。使用目的は投与されたものの自由を奪うことで、生薬で毒性を和らげるように作られている。効果にはアエルは関係なく、体重あたり0.05g飲めば1時間は仮死状態になる。投与量を守ればまず死ぬことはない。
この情報は菊池を十分に納得させるものだった。
「それじゃ、決行は明日の夜だ」
本当はこの毒を試してみたかったが、レイヨと菊池には時間がなかった。
明後日は月に一度の物資の搬入日だ。明け方から業者が多数集まるため、明日の未明は、脱走には絶好のタイミングだった。