心肺蘇生
「に・・げて・・・」
狂気の感情が彼女を包みこんでしまいそうになった時、シコーの絞り出すような声が彼女を現実に引き戻した。
「シコー!」
タリハはシコーの首を更に強く締めつずけており、顔面を赤紫にしながらも、彼女の方を見つめながら逃げるように訴えていた。
このままではシコーは死んでしまう。
長く感じたが、彼女が意識を過去に向けていたのは数秒のことでしかなかった。
彼女は自分を取り戻すと、必死に武器になるものを探した。そして彼女の手に冷たい剪刀が触れた。クナハは剪刀を両手にしっかりと握ると、タリハに向かって突進して背中に突き刺した。
「ぐぁ!」
彼女のタックルにより、三人はもつれるように倒れこんだ。タリハはシコーから手を離すと、仰向けに倒れた彼女の身体の上に乗って押さえつけた。
「このアマ!ひでえ事しやがって」
彼はクナハの顔を平手打ちした後、左手で背中の剪刀を引き抜いた。そしてしばらく痛みに呻いた後、彼はクナハの頸を手で掴むとギリギリと締め始めた。
「裏切り者!殺してやる!」
手に着いた自分の血液を、クナハの顔に擦り付けた。
「うう」
彼女は足をバタつかせてもがいたがビクともしなかった。
ああ、私は殺される。
タリハは彼女の頸を締めながら、ゆっくりと前のめりになっていった。タリハの体重が、細い頸にかかり、頚椎が折れそうに悲鳴を上げた。クナハの顔面は鬱血し、意識が朦朧となり始めた。
「シコー・・・」
しかし、不意に頸を締め付けていた力が抜けたかと思うと、タリハはそのまま顔面が床につくまで前に倒れてしまった。彼女は涙を流しながらむせ混み、なんとかタリハの身体の下から抜け出した。タリハは意識を失っていた。シコーの麻酔薬が効いたのだ。
「シコー!」
彼女は急いでシコーの所に向かうとシコーの脈を診た。
脈はない。
呼吸も停止していた。
仰向けにすると、シコーの顎を引っ張り上げて気道を確保し、心臓マッサージを始めた。心停止後数分で脳には不可逆的な障害が起きてしまう。とにかく脳に血液を運ばなくてはならない。
シコーの傍に膝立ちになり、左手のひらを彼の胸の真中に当て、右手を左手の上に添え、1分間に100回のペースで5センチ以上沈むように肘を伸ばしながら真っ直ぐ押す。
クナハは懸命に胸を押した。人工呼吸は無理に行う必要はないが、彼女は30回に2回の割合で、鼻を押さえてシコーの口に息を吹き込んだ。シコーの胸郭が上下する。
しばらく行うとシコーが咳き込み始めた。自発呼吸が出たのだ。脈を取ると圧力のある、確かな脈が触れた。
「シコー!わかる?」
クナハはシコーに声をかけた。シコーはゆっくり眼を開けた。彼の眼の前には、胸を露わにし、汗と血液にまみれたクナハがいた。
「あれ?クナハさん、大丈夫ですか?」
「あんた、本当にかっこ悪いよ・・・」
クナハはシコーに抱きついた。
クナハはタリハを縛ると、猿ぐつわを噛ませてから浴室に閉じ込めた。麻酔薬で昼まで寝ているだろうが、念を入れるに越したことはない。そしてシコーを長椅子に移すと、少し休むように促した。
「大丈夫です。まだ準備もあるでしょ?」
「何が大丈夫なのよ。首に奴の手型を付けてさ。ちょっとだけ死んでたんだから、休まなくちゃダメよ。まだ少し時間あるから休みなさい」
そう言って、シコーを長椅子に押し付けるように横にすると、優しく毛布をかけた。
******
左右に檻の並んだ薄暗い廊下に、マシカの靴音が響いていた。辺りには彼の靴音以外には囚人達のイビキが聞こえているぐらいだった。彼は正面から靴音が近づいているのに気がつくと少し体を硬直させた。
「よお」
巡回中に同僚が彼に挨拶をしてきたため、軽く会釈を返したが、同僚の反応はマシカが期待していた反応とは異なっていた。彼は足早に近づいてくると、興奮した面持ちでマシカに話しかけてきた。
「おい、さっきの騒ぎ知ってるか?」
「騒ぎ?」
菊池の騒ぎが起きた時、マシカは監房棟2階の巡回をしていたので、騒ぎには気がつかなかった。マシカが知らないだろうことは同僚も理解していたようで、自慢げに話しを続けた。
「さっき菊池が死んだぜ」
「え!?なんで?」
マシカは動揺を隠しながらも、過剰な反応は示さないように努めた。
菊池が死んだ?殺されたのか?一体なぜ?
「ああ、俺、その場にいたんだけどさ、ありゃ癲癇だな。俺、ばあちゃんがなった時に見たことある」
「癲癇?癲癇で死ぬのか?」
「さあな。でも奴は共生者じゃないらしいからな」
マシカはあまり興味なさそうに、あっさりと同僚から離れていったため、同僚は少し不満そうで会ったが、そんなことに患っている余裕はマシカにはなかった。対応を考える必要があった。クナハと相談したかったが、彼女はシコーと行動していた。
よりによってこんな日に。このことは、シコーには伝えてはまずい。なるべく隠さなければならない。
******
「シコー、起きなさい、シコー!」
シコーはクナハの声で目を覚ました。始めは自分がどこにいるのか分からなかったが、直ぐに理解できた。女子更衣室の長椅子で寝ていたシコーの目の前には、クナハのイライラした顔があった。
「おら!いそいで!もう1時よ!」
ぼーっとしていた彼を、クナハはベッド代わりの長椅子から蹴り落とした。
「イタタ。酷いですよ」
「ほら、もう十分休んだでしょ?グズグズしない!搬入、始まってるんだから」
クナハ達は階段を上って管理棟2階に向かった。この階には当直室や控室、ロッカーがあった。所員達が交代で仮眠や休憩を取るのである。
二人は静かに廊下を進み、控室に向かった。入り口の扉は開け放たれていて、廊下から簡単に中を覗くことができた。部屋の中央に置かれたテーブルの上は、賭博用カードや飲物などが乱雑に置かれ、カップからは湯気が立ち昇っていた。テーブルの周囲には椅子や長椅子が、これも乱雑に置かれていて、看守が一人、長椅子にもたれかかりながら、こちらに背を向けてうたた寝をしていた。計画通り、ほとんどの看守達は巡回に向かったようだ。
彼らはうたた寝をしている看守の背後からゆっくり近づくと、シコーがその顔をタオルで押さえつけた。そして、すかさずクナハが麻酔薬を首に注射すると、二人掛かりで押さえつけた。看守は暫くばたついていたが、すぐに動かなくなった。
昏睡した看守を縛り上げて掃除用具入れに隠すと、クナハがテーブルのそばの壁に備え付けられた金属製の箱を開けた。中には沢山の鍵が整頓されて吊り下がっていた。鍵にはそれぞれ場所を示したプレートがついており、プレートも用途ごとに色分けされていたので使いやすい。クナハは用意してきた袋に鍵を全て入れると、シコーにいくつかの鍵と爆弾を投げて渡した。シコーは慌てて爆弾をキャッチした。
「あ、危ないじゃないですか!もう、時限装置入ってるんですよね?」
「なにビビってるのよ。だらしない。あんたが寝てる間に入れといたわよ。大変だったんだから」
「べ、別に、ビビってませんよ」
「それじゃ、手分けをして爆弾を置いて来ましょう。頼むわね、死人ちゃん」
そう言うと、控え室の隅の目立たない所に爆弾を1つ置いた。
「所で、さっき私を助けようとしたとき、なんか『俺の女の子』がどうとか言ってたような・・・」
「わー!わっわ!なんでもありません。なんでも!」
シコーは真っ赤になって否定した。
「わかったわ、ダーリン」
クナハは投げキッスをしながら鍵袋を持って出て行った。彼女はこのまま二階に爆弾を仕掛けていく予定である。シコーも看守室を出ると、担当である管理棟一階に向かった。