シタカ
「どうだった?」
菊池は目の前にいる顔色の悪い男に尋ねた。シタカは自分の立場が危うい事になっていることはわかっていたが、どうすべきかわからず、困惑の表情を浮かべていた。
「これがありました」
シタカは菊地に赤い匂い袋を渡した。菊池は袋の触り具合が異なっていることに気がついた。
「ああ、中に彼女からの手紙が入っていますよ」
菊池は急いで袋を開けてみた。中には小さく折り畳んだ紙が入っていた。
「読んだか?」
「他人宛の手紙を読む?ああ、全く気付きませんでした。そんな下衆なことはしません」
小さな紙にはレイヨの汚い字が書かれていた。
『タカヨシ、私はOKキツネだよ。身体に気をつけて。地下3階の左奥/レイヨ』
菊池は涙が出てきた。字はかなり震えて、かろうじて読める程度だった。
レイヨ、良くやった。これは使える。
菊池は手紙をしまうと、シタカに語りかけた。
「なあ、君はどうするんだい?かなりヤバイ立場にいるんじゃないか?」
「うるさい。あなたの知ったことではありません」
確かに、菊地の言う通りだ。さっきから同じことがシタカの頭を巡っていた。
菊池の言うことが本当だったとすると、事実匂い袋はあったのだが、自分はミナタに嵌められていることになる。今回はたまたま上司から質問されたからわかったが、次は無い。自分が何も情報を得ることができなければこの地位も危ない。もし菊池の嘘だとしても、レイヨに匂い袋を渡したのはミナタであることは確実であり、囚人に私物を渡したことが上に知れれば、ミナタは下手したら死罪、私も良くて左遷だ。どう動くのが最善なのか?しかし彼には何も思い浮かばなかった。思考の硬直である。こういう時には、シタカは何もしないことにしていた。嵐が去るのを待つのだ。浅はかな行いは、かえって悪い結果を生む。そうだ。早く家に帰って寝よう。何もしない方がいい。
シタカは、まるで夢遊病者のようにふわふわした足取りで、何も言わずに監房を出て行こうとした。菊池は、一瞬シタカが何をしようとしているのか理解できなかったが、監房を出て行こうとしているのを見ると慌てて呼び止めた。
「お、おい、待てよ。このまま放っておいていいのか?ミナタは明日も来るぞ。それに、君は今墓穴を掘ったんだぞ」
そう言いながら菊池はレイヨからの手紙をひらつかせた。
「そんな!君のためを思って貰ってきてあげたんだぞ!恩を仇で返すのか!それをこっちに渡せ!」
シタカが強引に手紙を奪い取ろうとしたので、菊池は大声で看守を呼んだ。外にいた看守は驚いて中に入ってくると、シタカを菊地から引き離した。
「どうなさったんですか、シタカさま」
「なんでもない・・・。申し訳ありません。少し興奮してしまいました。もう大丈夫です。少し二人で話合わせてください。いいですか、このことは誰にも言わないでください。お願いしますよ」
シタカは肩でハアハアと息をしながら答えた。看守は菊地の方を見たが、菊池も頷いているので、
「外におりますから、何かあったらすぐに呼んでください」
といって出て行った。菊池は蒼白で、口元が震え、目が虚ろになっているシタカを冷静に見ていた。思った通り、この男は共生者にしてはメンタルが弱い。シタカの肩にポンと手をかけると、シタカはビクッと全身を震わせ、恐る恐る菊池の顔を見つめた。
「良い手があるが、聞くか?」
菊池の両眼が僅かに薄く光りはじめた。シタカは菊池の眼を正面から凝視したまま、金縛りにあったように動けなくなった。しかしシタカの視界がボヤけ始めた頃、光は消えてしまった。後にはひどい頭痛が残り、菊池は顔を歪めた。
「ど、ど、どうしたらいい?」
菊池を見つめるシタカの眼には、僅かだが狂気の色が見えた。元々弱い人間なのだろう。シタカの頭のブレーカーが落ちたのだ。菊池は頭痛を振り払うかのように頭を振ると、シタカに優しく語りかけた。
「いいか、僕に任せろ。僕の言うことを聞いてくれれば、全て上手く行く。今以上の栄誉も」
「そ、そんなのは無理だ。無理に決まっている・・・」
「いいや、そんなことはない。君は僕の担当回術師だろ?君の命令はここでは絶対だ」
「絶対?そんなわけないでしょう?」
「いいや、君は僕の生命を担っているんだぞ?皇帝は何て言った?」
「君を殺すなと・・・」
「そうだ。『僕を殺すな』が皇帝の意志だ。それを担っているのは誰だ?」
「・・・私」
「そう、君だ。つまり君の命令は皇帝の命令と同じことだ」
「皇帝の・・・」
シタカの顔から苦悩の表情が薄れていった。しかし苦悩が消えたというよりは、表情そのものが消失していた。
「そうだ。それに君は賢い。こんな地位に甘んじている男ではないはずだ。僕なら君を出世させられる」
「出世・・・」
「ああ。脱出した後、僕は匙の国に逃げようと思っている。君も一緒に行こう」
「匙の国ですか?」
「幕多羅の村長から聞いた話では、僕を欲しがっているらしい。房の国と戦争になる危険を犯してまで幕多羅に加担していたんだ。僕を連れて行けば、間違いなく恩賞は思いのままだ。君の才能があれば、必ず重用されるし、僕がかけあってやる」
シタカは自分の両手をジッと見つめながら無表情だが、口元を釣り上げてクククと笑った。狂気の宿った顔貌であった。
「いいか、難しいことじゃない。まずここの構造と警備状況を教えてくれ」
しかし、シタカは薄笑いしているだけで、菊池の話が聞こえないようだった。菊池はシタカの頬を軽く叩いた。
「な、何をする!」
「目が覚めたか?しっかりしろ。いいか、ここの構造だ」
菊池は移動が制限されていたため、ほとんど知らなかった。シタカは筆記用具を取ると、分かる範囲で図を描き始めた。建物は塀と有刺鉄線で囲われており、北西に大きく重厚な造りの正門があり、極太の閂で常に閉ざされていた。その脇に通用口があり、24時間2名の看守が駐在していた。建物はL字型を呈しており、正門に隣接している南北に長い建物は管理棟、東西に長い建物が監房棟である。管理棟は地上3階、地下1階の建物で、守衛室や所長室、回療室、病室などがあり、療養中の菊池やイドリはここにいた。監房棟とは1階でつながり、地下へ続く階段はここにしかなかった。監房棟は地上3階、地下3階で、1階は特殊監房や作業場、浴室などがあり、2階が男性、3階が女性監房になっていた。そして地下3階にレイヨがいる地下牢があった。
見取り図を描き終えた菊池はシタカを見たが、彼は無表情で、まるで夢を見ているような顔つきである。
「彼女はどこにいる?」
菊池はシタカに強く訪ねた。我にかえったシタカは、地下3階の一番奥の辺りを指差した。
「警備状況はどうなっている?」
「職員は全部で200名。夜間が少ないのは当然ですが、それでも20名ぐらいは当直しています。ただ、ここ管理棟にはあなたの他に一名いるだけですし、地下3階は彼女しかおりませんから、警備は緩くなっています。それでも、かなり厳重ですよ。それはあなたが一番ご存知でしょう?」
確かに、夜間は見張りが一人いるだけで、よくうたた寝をしてはいたが、施錠はしっかりなされていた。また定期的に所員が巡回していた。
「それに、もし彼女がいなくなればすぐに大問題になりますよ」
「なぜだ?たかが小娘一人だろう?」
「いえ、幕多羅の生き残りは彼女しかおりません。幕多羅は反逆の罪で皇帝の命により浄化を受けたのです。彼女を逃がすことは、皇帝の命に背くことになり、ひいては皇帝の求心力低下につながりかねません」
菊池は唸った。彼女を助けるのはかなり厄介だということだ。
その頃、監房棟地下二階の研究室に、大きな檻が運ばれてきた。
「大丈夫なんだろうな?」
所長は恐る恐る檻に近づいていった。
「ええ。先程眠らせました。しかし、こんなモノ、どうするおつもりですか?」
警備主任のタリハは搬入の支持を出しながら所長に尋ねた。
「知るか。知りたくもない。庵羅さまからの直々のご命令だ。内密にちょっと預かるだけで沢山の恩賞を下さったんだ。それも前金でな。それに庵羅さまとの関係を築いておいて損はない」
「私にもお裾分けは頂けるんでしょうな?」
「任せておけ。その代わり、箝口令をしっかりとな。上に知れては面倒だ」
その時、檻の中のモノが唸り声を上げた。その声は彼らの全身の汗腺という汗腺を開き、冷えた汗を絞り出すのに十分な効果があった。