ミナタの裏切り
翌日、菊池の体調は嘘のように改善し、彼は病状の回復を神に感謝した。レイヨがこの刑務所にいると分かった以上、早急に彼女を奪還する策を練る必要があるのだ。しかし状況はかなり困難だった。第一、彼女が広い所内のどこにいるのかさえ分からないのだ。調べようにも、菊池は常に監視されており、移動も自分の監房と回療室の間だけしか許されなかった。こうなると鍵はミナタとシタカしかない。彼らの関係を利用するのである。
ミナタがいつも通り監房にやって来ると、菊池はいつものように彼の診察を受けながら、さりげなく尋ねた。
「君には恋人はいるのかい?」
「え?」
ミナタは顔を赤くした。
「いえ、いません。私はまだ勉強中の身ですから」
「そうか・・・僕にもいないが、知り合いの女の子はいる。知っているかい?」
「・・・いえ、何も知らされてはおりません」
ミナタは困惑の色を浮かべた。
「そんなはずはない。君は幕多羅の女がここに監禁されていることは知っているだろう?」
「いえ、知りません。それよりも診察を続けますよ。向こうを向いて背中を見せて下さい」
ミナタは再び診察を始めたが、明らかに動揺していた。
「いや、君は嘘をついている。彼女はレイヨという。とても優しい娘だ。彼女はこのままでは殺されてしまう。助けてくれ」
「やめて下さい。私は一介の回術師です。そんな私に何が出来るでしょうか?」
「君なら出来る。いや、君にしか出来ない。レイヨの居場所を教えてくれないか?知ってるんだろ?それだけでいい。あとは何もせずに君の仕事をこなしてくれればいい。頼む、この通りだ」
菊池はミナタに向かうと頭を下げた。しかしミナタは首を縦には振らなかった。
「そんなことしたら、私は大きな罰を受けてしまいます。下手したら反逆罪で処刑です。私には国に家族がいます。家族を食べさせなければいけないんです。私もあなた方の境遇には同情しますが、どうしようもありません」
菊池はすまなそうにするミナタの肩を両手で掴むと、正面から彼の顔を凝視した。
「や、やめて下さい」
ミナタが菊池の腕を払おうとしたその時、菊池の両眼がオレンジ色に淡く光り始めた。その光は本当に光っているのか分からないほど淡く、微かなものだったが、ミナタの心を一瞬で掴んでしまった。ミナタは菊池の眼から視線を外せなくなっていた。そしてゆっくりと視界がぼやけ、突然故郷の両親や弟達の顔が浮かんできた。その見たこともない情景は、不思議と菊池にもハッキリと思い描くことができた。
「国元に残してきた家族、さぞかし心配だろうな。優しい母親、温和な父親・・・」
「父さん・・・」
ミナタには菊池の顔が父の顔と重なり始めていた。父はミナタを案ずるような表情をして微笑んでいた。
「父さん・・・私は父さんを見捨てたんじゃない・・・捨てるなんて!私は、私は・・・」
ミナタの眼から涙が溢れ始めたが、瞬きすらせずに菊池のオレンジ色の瞳を凝視していた。頬を流れた涙を拭うこともせず、彼の視線は遥か先を見つめているようでもあった。
「お前はレイヨのいる場所を知っているな?」
ミナタは頷いた。
「それじゃ、これを彼女に、レイヨに渡してくれ」
菊池はレイヨが作ってくれた匂い袋をミナタに握らせた。ミナタは頷きながら、匂い袋を受け取った。その時、菊池の頭に電撃が流れるような痛みが走った。
「ぐっ」
菊池は顔を歪めながら頭を抑えて呻いた。するとミナタは突然我に帰り、辺りを見渡し始めた。手に持っていた匂い袋が床に落ちた。
「あれ?父さんは?どこに?」
彼は自分が泣いていたのに気づくと、不思議そうに涙を拭い始めた。菊池は頭を抑えながら床の匂い袋を拾うと、再びミナタの前に差し出した。
「頼む。これを彼女に。彼女の唯一の希望は僕だけなんだ。両親も殺され、村も焼き払われた。僕も彼女しかいないんだ。お願いだ。一生のお願いだ」
しかし、ミナタは被りを振った。
「駄目です。私にはできません」
「ただ、彼女の牢の中にこれを投げ込んでくれればいい。簡単じゃないか。何も話せと言っている訳じゃない」
しかし、ミナタは首を縦には振らなかった。
「なんで私がそんな危険を犯す必要があるんですか?」
「それじゃ、とっておきの情報を君にあげよう」
「情報?」
ミナタは無表情に尋ねた。まだ拭った袖についた涙を、不思議そうに見つめていた。
「皇太子が死んだだろ?その原因についてだ」
ミナタは反応を示した。やっと取っ掛かりを得ることができたと菊池は歓喜した。彼は幕多羅が浄化された原因を調べるために、シタカから情報を集めていた。彼は菊池のご機嫌を取ろうとしてか、元来口が軽いのか、様々な情報を流してくれた。そして菊池は臨床症状や臨床経過から、皇族たちの不審死の原因疾患に思い当たるものがあった。
「それは不可視生物だと聞いてますが?」
皇太子達は研療院総出で治療が行われたために、ミナタのような下っ端でも知る有名な話だった。しかし御前会議で報告された内容など、詳細は知らされてはいなかった。
「違う。真実は別の所にある」
菊池の自信ありげな顔は、ミナタの知識欲を刺激していた。これは学問を志すものの宿命である。これが菊池でなければ、ハッタリだと一笑するところだが、菊池は別である。彼の行った除術は驚愕に値し、医術知識も優れているのだ。
「何を知っているんですか?どう違うんですか?」
ミナタは真剣な顔で尋ねてきた。しかし菊池は笑みを浮かべると、はぐらかすように両手を広げた。
「さあな。やってくれたら話す。必ずだ。この情報をシタカではなく、回術長に直接話せ。必ず君は高く評価されるよ。そうすれば、シタカを出し抜くこともできるし、出世にも繋がる。家族の為にも出世したいだろ?」
ミナタはしばらく菊池を睨みつけていたが、大きくうなずくと赤い袋を受け取った。その顔にはすでに戸惑いはなかった。