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共生世界  作者: 舞平 旭
蘇芳刑務所
126/179

虫垂炎

 収監されてから、菊池は他の囚人に会ったことはなかったが、今日、初めてその一人に会った。

 菊池は毎日ミナタの診察を監房内で受けていたが、週に一度、回療室で検査を受けていた。回療室は菊地の監房と同じ一階にあり、直線距離で20メートル程しかなかったが、彼にとっては唯一、房の外に出られる機会だった。通常は誰もおらず、ミナタが検査を行った後に帰るだけだったが、今日はいつもと違っていた。回療室のベッドでは、60歳台と思われる老人が腹部を押さえて脂汗を流しながら苦しんでいた。側には看守と看護師がいたが、オロオロするばかりだった。ミナタは回療室の入口で菊池を止めると考え込んだ。


「どうした?」


 菊池はミナタに尋ねた。


「どうも急患の様です。困りましたね。少し聞いてきますから、ここで待っていてください」


 ミナタは奥にいる回術師の所へ行き、暫く話してから帰ってきた。


「やはり急患です。昨日から調子が悪かったようですが、先程から苦しみ出したらしいです」


「診断は何だ?」


「わかりません。患者は適応者ですから。専任の医術師は急用でいないそうなので、我々ではどうしようもありません。今、地元の医術師を呼びにやっているとのことです」



 ここは適応者専用刑務所なのだから、必要な人数の医術師を配置すべきなのだが、医術を修得している回術師は少なく確保できてはいなかった。適応者には医術師が多くいるが、刑務所のような公共施設に適応者を雇うことは少なかった。そのためここの医術は、少し医術をかじっている専任回術師が一人で担っており、後は研療院からの出向に頼っていた。ミナタはそのような回術師の一人で、シタカは回術師のまとめ役の一人であったが、彼らは医術には興味がなく、専ら独自の回術研究を行っていた。



 暫くすると、20台後半ぐらいの若い男が大きな鞄を持って入ってきた。男はそそくさと、患者の腹部を診察し始めた。手つきがぎこちなく、まだ経験が浅いようだが、医学の心得はあるように見えた。菊池は制止するミナタを無視して若い医術師のそばに向かった。


 この世界の医療レベルの低さには目を見張るものがあると菊池は感じていた。しかし一部の分野、特に薬学では西暦世界を凌駕する所もあり、間違いなくまともな進歩をしてはいない。多分、アエル云々のせいなのだろう。特に医術師のレベルが低すぎた。彼は何人かの医術師に会ったことがあるが、まじないに近く、まるでシャーマンだった。


「診断はなんだと思う?」


 菊池は若い医術師に尋ねた。彼はビックリして菊池の顔を見つめたが、無視して診察を続けた。菊池が見る限り、触診で圧痛点を探っているようだが、押さえる部位が理論だっていなかった。あれではわからないだろう。


「よくはわからないが、右下腹部痛のようだ。アッペはどうだ?」


 菊池は放置することがてきず、若者に声をかけた。


「アッペ?」


 医術師はキョトンとした顔をして尋ね返してきた。


「盲腸だ。盲腸はわかるか?」


「いいえ、何ですか、それは?」


 菊池は溜息をついた。


「一度、僕に診察をさせて貰えないか?5分でいいから」


 菊池は若い医術師に頼んだ。判断に困った若い医術師は周囲を見渡したが、誰も反対するものはいなかった。若い医術師とて、腹痛はらいたなので腹痛の薬を出して終わろうとしていた手前、断る理由はなかった。それに、『腹痛』に『腹痛』以外の病気があるという彼の発言が気になっていた。


「わかりました。お願いします」


 そう言うと、医術師は患者から離れた。


「君、名前は?」


 菊池は患者の右脇に立つと、若い医術師に尋ねた。


「シコー」


「シコー、悪いが、ステート貸してくれるか?」


「ステート?」


 シコーは、何を言われたのか分からずキョトンとしていたため、菊池は彼の首にぶら下げられていた聴診器を指差した。


「ああ。これですね」


 シコーの聴診器はチェストピースが木製のかなり旧式なもので、膜面ダイヤフラム)もなく、ただベル型の集音器にゴム管が付いているだけの代物だった。そしてかなり使い込まれ、年季も入っていた。


 聴診器は1816年、フランスの医師、ルネ・ラエンネックが発明し、stethoscope(ステソスコープ、ギリシア語で胸部検査器の意)と名付けられた。日本には明治初期に独医学が導入され、その後20世紀後半まで独医学が主流だったため、その名残りが随所に見られる。ステートも、stethoの独語読みに近い。



 菊池は聴診器を借りると診察を行った。患者は脂汗をかきながら、腹を押さえて唸っていた。60代後半から70代の男性。この世界の人間の年齢は分かりにくく、合っているのか分からなかった。歳の割りに身体は締まっており、大柄で肩幅は広かった。


「いつ頃から痛みますか?」


「昨日から少し腹が重かったが、30分ぐらい前から急に痛くなった」


「少しお腹を診させて下さい」


 菊池は腹部を触診し始めた。肌に触ると少し発熱しているのがわかった。


「両膝を立てて。口を開けて、ゆっくり息をしてください。なるべくお腹の力を抜いて。そう。それでは、痛みの少ない上の方から触りますね」


 上腹部・心窩部に異常は認めず、圧痛もなかった。右下腹部を痛がっており、マクバーニーに圧痛点が認め、軽度だが筋性防御が認められた。次に腹部に聴診器を当てて腸の蠕動音を確認した。蠕動音は亢進し、僅かだが『コキ、コキ』という金属を叩く様な音がした。腸閉塞イレウスを起こしている可能性がある。


「看護師さん!」


 そばに立っていた看護師はビクリとした。30絡みの、赤味がかったセミロングの髪を持つ女性だったが、周りの回術師同様に、菊池を畏怖いふしているようだった。


「レントゲンは無いのか?」


「れ・・・?」


 シコーにも尋ねたが存在していないようだった。予想はしていたので、驚くには値しなかった。彼は以前、黄持が手で超音波検査の真似事をやっていたのを目撃していた。そんな便利な世界なら、レントゲンは発明されていなくても無理はない。ここにいる回術師達にもできるのかもしれないが、彼らが疾患を知らなければ意味はないだろう。


「それでは、念のために直腸診をします。手袋と何か、指の滑りをよくする軟膏みたいなものありますか」


 菊池は看護師に命令した。彼女は慌てていながらも、比較的冷静に仕事をこなした。菊池が直腸内に指を入れ、触診をすると、9時に圧痛を認めた。間違いない。


虫垂炎アッペだな」


「アッペ?」


 シコーには初めて聞く言葉だった。


「腸はわかるか?ハラワタだ」


「はい」


「大腸は?」


「何ですか?」


「太い方の腸だ」


「ああ、太腸ですね」


「それじゃ、細い方は細腸か?」


「はい」


「うーん・・・」


 菊池は面食らった。臓器名が異なり説明が困難である。それなら絵を描くに限る。菊池は昔、英語がそれほど得意ではなかった。若い時にアメリカに二年間留学に行ったが、その時学んだことは、『英会話では、相手に自分の言葉を聞く気にさせることが大切で、身振り手振り、時には絵を描いてでも相手の関心を買うことがコミュニケーションの成功に繋がる』という経験だった。ここでも同じだろう。とにかく関心を持たせるんだ。菊池は側にあったメモ紙に口から胃、十二指腸、小腸、大腸から肛門までの絵を描き始めた。そして盲腸に二重丸をつけた。


「ここだ。ここに炎症が起きているんだ。だから、この場所を取り除く必要がある。腹の感じではかなり炎症が進んでいる。もう内科的治療は遅いだろう。このままでは盲腸が破裂して腹膜炎を起こして死ぬぞ」


 シコーは菊池の話を理解しているようだったが、驚いて口をあんぐりと開けていた。


「つ、つまり、腹痛に『除術』をやれってことですか?太腸を取り除く?そんな無謀なこと・・・第一、そんな治療、私はやったことがありません」


「大丈夫だ。僕がやる」


 シコーは眼を丸くした。


「あなたがですか?あなたは医術師なんですか?」


「そんなところだ。道具や薬がしっかりしていれば難しい手術じゃない」



 シコーには菊池の言っていることの真偽はわからなかったが、その説明には説得力があった。事実、患者の状態は悪化しつつあり、このままでは死亡するという彼の意見も尤もに思えた。シコーはこの患者と同じような症状の患者を何人か診察したことがあったが、半分くらいが死んだ。この囚人に治療できるのかわからないが、『除術』を内臓に行うという菊池の意見に興味があった。


「私はいいと思いますが、他の方はいかがですか?」


 シコーは周囲の人達を見回し尋ねた。


「いいえ、困ります」


 ミナタが菊池とシコーの間に割って入った。


「私の立場では、そんなことを菊池さんに許可する訳にはいきません。我々は関係のないことです。菊池さん、さあ戻りましょう」


 ミナタは菊池に監房に戻るようにうながした。


「しかし、この患者は死ぬぞ」


「そんなこと、貴方が気にする必要はありません。さあ、帰りましょう。おい、看守、彼を」


 ミナタは看守に菊池を連れて行くように命令した。


「いいえ、やってもらいましょう」


 その時、いきなり背後から声がした。一同は声のした方を見ると、入り口から一人の男が入ってきた。

 シタカだった。

 彼は満面の笑みを浮かべて菊池に近づいてきた。


「菊池、やってみて下さい。責任は私がとりますから」



 レイヨは、窓もない、薄暗く湿った独房に囚われていた。ここがどこなのか、彼女には全くわからなかった。少なくとも舟には乗せられていないので、常世のある房東ではない。ここに連れてこられた時、彼女は回術師に身体中を調べられた。特に処女であることと食生活についてはしつこく尋ねられ、恥ずかしい検査もされた。これから処刑される女の純潔になぜこだわるのか、彼女にはさっぱりわからなかった。

 尋問は週に1、2度行われていたが、聞かれることは菊池のことばかりだった。最初は厳しく詰問していた尋問官も、新たな情報が得られないとわかると、とても親切にしてくれた。自分達の利益が無いとわかった後の、手を返すような変節は、共生者特有で、彼等には遺恨やわだかまりが全く感じられず、自分達がレイヨの両親も幼馴染も全て虐殺したなど考えてもいないように見えた。


「タカヨシ・・・」


 彼女は不安で気が狂いそうだった。今の所、命が取られるような危険を感じたことはなかったが、これからどうなるかは全く見当もつかなかった。そしてあれ以来、夜はぐっすりとは眠れなかった。眼をつぶると、父の断末魔の声が木霊こだましていた。


「タカヨシ、助けて・・・」



 ミナタは菊池の手術に難色を示したが、シタカは強引に進めていった。患者は死刑囚の老人であり、死んでも文句が出ることはない。それよりも菊池の医術師としての知識や技術の方がシタカには気になった。彼の会話に時々垣間見える内容は、時にシタカには理解不能だったが、全くの妄想と片付けられないリアリティがあった。これで彼の潜在価値がわかるだろう。



 患者は裸にされ、奥の診察台に寝かされた。そこには医術用の電灯があったからだ。無影灯ではないので、その都度動かして貰わないと術野に影ができてしまうが仕方がない。用具は、円刀・尖刀、剪刀はさみ鉗子かんし鑷子せっしこう、針と縫合糸、吸入式麻酔、消毒薬、抗菌薬など一通り揃っていた。これなら何とかなると菊池は思った。看護師に器具の消毒を頼み、麻酔はシコーに頼んだ。吸入麻酔は使い方がわからなかったからだ。シコーは手術は初めてではないようで、テキパキと患者に麻酔をかけたていった。麻酔をかけ終わると、麻酔管理と外回りは看護師に交代させ、シコーは手洗いさせて助手に入ってもらった。挿管はしていないが、シコーの話では、この麻酔で呼吸が止まることはないとのことであり、それを信じるしかない。どうせ呼吸器などないのだ。

 菊池は消毒をすると、術野を作成し、円刀を持った。


「それでは始めます。お願いします」


 彼は、患者の右下腹部に4センチ程の切開を行った。いつもより長めだが、今回の手術では、傷口の醜美よりも速さが要求されると考えたためだ。4センチあれば、確実に視野が確保できる。スウっと引かれた円刀の切開線上の複数の場所で、血液がゆっくりと丸く広がっていった。まるで赤い枝になった真っ赤な果実が成熟していくかのようだ。菊池はガーゼで出血部を押さえると、そのまま鉗子で傷口をこじ開け始めた。


「?」


 菊池は違和感を感じ、鉗子を見た。そしてシコーに鉗子を見せながら問いかけた。


「君、これは左利き用じゃないか?」


「ええ。手術器具は左利き用と決まっています」


「え?」


 菊池は驚いた。西暦世界では、手術器具は、余程注文をしない限り右利き用である。左利きで外科医を志す者は、研修医時代に右利きに矯正することが多い。なぜなら、高価な手術器具をわざわざ1割未満の左利きのために揃えるのは無駄だからだ。この世界では共生者と呼ばれる民族が適応者と呼ばれる民族を支配している。つまり、手術器具を作っている共生者に左利きが多いということだ。確かに幕多羅では右利きがほとんどだったが、常世やここでは、大多数が左利きである。チンパンジーには利き手は無く、人が高度な言語を使い始めてから、言語にとって重要な左脳が発達したために、左脳が支配する右手が利き手になったとする説がある。この世界で一体どうなっているのだろう?


 しかし菊池には躊躇ちゅうちょしている余裕はなかった。鉗子や剪刀ならば別に右手で使っても問題は無い。彼はすぐに手術を再開した。鉗子は黄色い脂肪組織にできた穴をドンドン広げていった。出血は滲む程度だったが、出血部位には丁寧に鉗子をかけて糸で結紮して止血していった。かなりの速度で腹が開かれていった。


 シコーは菊池の手術を間近で観察し、驚嘆していた。

 なんだ、これは?

 こんな方法があるのか?

 今まで自分が行なってきたことは除術ではなかったのだ。同じ器具を使って居ながら、まるで異なる方法だ。これが真の除術なのだ。


「おい、君、鉤をもう少し開いて」


 シコーは考えを中断して鉤を菊池の言う通りに開いた。じきにやや白く、艶やかに光る膜、腹膜が露わになってきた。菊池は鉗子で腹膜を挟むと剪刀で小さく切開した。菊池は腹膜内に指を突っ込みまさぐった。この世界の滅菌手袋は厚くて、指先の感覚が今ひとつだったが、なんとか指先に虫垂を感じ、引っ張り出した。見事に腫大した虫垂が出てきた。これは穿孔一歩手前だ。


「それでは虫垂を切除する」


 菊池は虫垂と大腸の境目に鉗子をかけると糸で結紮した。そして剪刀で切除。念のために腹腔内を洗浄した。ドレーンがわりにガーゼを置き、腹膜、皮膚を縫合して手術は終了した。


「終わりました。お疲れ様でした」


 菊池は手袋を外すと汗を拭った。施術時間は30分もかかっていなかった。


「す、素晴らしい!私は感動しました!」


 とシコーは涙を流しながら菊池の両手をとった。


「君、手袋」


 シコーは手術用の血のついた手袋をしたまま菊池と握手していた。


「あ。すみません、すみません」


 シコーは顔を赤らめながら急いで手袋をとった。菊池は笑いながら血液がついた手を洗い、消毒した。


「後は抗生剤を投与しておいて下さい。傷口のガーゼは明日抜いて下さい」


 そう言うと、菊池は自分の監房に戻って行った。シタカ、ミナタを含めて、周囲にいた人々は唖然としていたが、急いで菊池の後に続いた。シタカは己の幸運に歓喜した。奴は凄い潜在価値を有している。何とか手懐けて情報を手に入れるのだ。これはチャンスだ。大チャンスだ!彼の頭には今迄に彼の能力を適正に理解することができず、こんな場所に縛り付けた上司の顔が浮かんできた。


 あいつらに吠え面をかかせてやる!

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