表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
共生世界  作者: 舞平 旭
蘇芳刑務所
125/179

捕縛

 幕多羅が房軍の攻撃を受けて、2ヶ月が経過していた。菊池は蘇芳すおう刑務所に収監されていた。ここは幕多羅から東に20キロほど離れた場所にある房の国の適応者専用の刑務所である。ここに菊池を収監させたのは仏押だった。菊池は共生者のため、本来なら共生者用の刑務所か回療所に収監すべきだったが、回学院の監視が厳しく、庵羅の介入を完全に防ぐことができないと考えたからだった。蘇芳刑務所ならば、研療院が囚人の健康管理を担う『お抱え』施設の一つのため、仏押の睨みが効く。更に回術師も多く、菊池の治療にも問題はない。



 幕多羅が浄化された時、捕縛された菊池達は最も近い房軍駐屯地に連行された。赤ん坊は捕縛時に連れ去られてしまい、行方は知れなかった。3人は暫く同じフロアの別々の監房に収監されていたが、数日で離れ離れにされてしまった。以来、蘇芳に移された菊池には、彼女たちの無事を確かめる術はなかった。



 菊池はキネリとの最期の夜を思い出した。レイヨの牢はやや離れていたが、キネリの監房とは隣り合っていたため、壁を通して会話ができた。


「キネリ、起きてるか?」


 菊池は壁にもたれかかりながら、隣りのキネリに向かって話しかけた。


「ええ。身体は大丈夫?」


「ああ。君は?」


「私は・・・平気」


 彼女が平気な筈はないと彼は思った。矢織との死闘でボロボロのはずだ。共生者は治癒速度が速いが、彼女はまだ思うようには動けず、身体を這わせながら鉄格子に向かっていた。


「キネリ・・・君はなぜ僕達を助けてくれたんだ?見ず知らずの僕達を?」


 しばらく返答はなかったが、ボソボソと弱々しい声が発せられた。


「わからない。なんでだろう?ただ、ただ、私・・・貴方を」


 夜中の監獄は静寂に包まれていたが、彼女の弱々しい声は静寂にさえ飲まれそうだった。


「ごめん。僕のせいで・・・君の人生を狂わせてしまって。本当にごめん」


「いや、謝らないで。謝るぐらいなら・・・私を、私を褒めて・・・よくやったって、褒めて」


 その時、菊池は何かを感じて鉄格子の隙間から手を、キネリの監房に向けて伸ばした。

 触れた。

 僅かだが、指先が彼女の指先に触れていた。彼女も手をこちらに伸ばしていたのだ。


「よくやったよ、キネリ。君はとても立派に戦った。君のお陰で僕達は助かった。君はとても偉かったよ」


「・・・ありがとう」


 彼女は彼の中指を、彼の指の太さを確かめるように、ゆっくりと愛撫した。


「さようなら・・・菊池」


 これがキネリとの最期の逢瀬だった。翌朝、キネリは常世に連行された。

 そして彼はその3日後に、蘇芳刑務所に護送されたのだった。



 蘇芳刑務所に移動した後から、菊池の元には毎日回術師が訪れ、採血や内服薬の処方、必要なら回術を施していった。慢性的な発熱に苦しんでいた菊池は、回術か解熱鎮痛剤で熱だけでも下げないと、動くことも出来なくなっていた。担当回術師はミナタといい、まだ20代前半の若者だった。ミナタの回術は解熱剤より効果があったが、施行後はかなりの疲労を感じ、しばらくは動けなくなった。解熱剤も効果はあったが数時間で再度熱発してしまい、持続時間に難があった。だが菊池は解熱剤を好んで服用していた。わけのわからない回術よりも、医師として理解できる薬物に頼ったのだった。しかし、そのために胃の粘膜が荒れ、さらに食思を落とす結果となっていた。

 解熱剤は正式には解熱鎮痛剤と呼ばれる。この系統の薬には多くの種類があるが、ステロイドかそうでないかにより大まかに分けられ、ステロイドでないものを非ステロイド性抗炎症薬(NSAIDs:Non-Steroidal Anti-Inflammatory Drugs)と呼ぶ。NSAIDsはプロスタグランジンの生成を抑制することで作用を発現している。プロスタグランジンは多機能生理活性物質で、発熱や痛覚に関連することから、程度の差こそあれ、解熱作用と鎮痛作用を併せ持っている。またプロスタグランジンは胃粘膜の血流にも関与しているため、胃炎などの有害作用を引き起こすのである。



 ミナタとはある程度の会話をするようになっていた。初めは上司から会話を止められていたようで、必要最低限しか話をしなかった。しかし菊池は模範的な囚人であり、病人でもあったため、徐々に気の緩みが出始めていた。


「気分はいかがですか?」


 菊池の監房に来ると、ミナタはいつも通りの会話を始めた。


「最悪だよ」


「食欲はいかがですか?」


「全くないよ」


 ミナタは血圧を測り、身体所見をとり始めた。そして舌圧子を使って口の中を観察した。


「君はどこの出身なんだい?」


 菊池はミナタに尋ねた。


「房南の辺りです。小さな村ですから、皆が家族みたいなもんです」


「そうか。僕はこの辺の地理には疎くてわからないが、良さそうな土地だな」


「はい、魚が美味いですよ。蘇芳に来て一番ゲンナリしたのが、魚のまずさです」


 ミナタは眼を輝かせながら答えた。


「そうかな?」


「鮮度が最悪ですよ。房南で食べれば分かりますが、身がピクピクいって、それは美味しいですよ。口に張り付く感じがするぐらいです」


 食欲のない菊池は想像すると嘔気を覚えたが、顔に出さないように堪えた。


「へえ、一度行きたいもんだな」


「是非。歓迎しますよ」


 ミナタは微笑んだ。


「だが、今は食欲もないし、味覚もおかしいからね。鮮魚だろうがカエルだろうが何を食べてもわからないかな」


 菊池は両手を左右に開きながら持ち上げ、困った感じを強調して笑いを取ろうとしたが、ミナタは逆に、真っ青な顔で震え始めた。


「や、やめてください。カエルなんて気持ち悪いこと言うの。夢に出てきそうですから」


 ミナタが本当に気持ち悪そうに口を押さえているのを見て、菊池は久しぶりに笑った。



 菊池の監房には、ミナタ以外に週に1、2度シタカがやってきた。彼はミナタの上司の回術師で、線の細い、ひょろりとした男だった。ミナタとは違い、シタカのことを菊池は好きではなかった。研究者を自負しているようだが、上から見下ろすような振る舞いが多く、何かと細かい事を言うのである。ミナタも苦手なようだった。この世界の研究者がどのような立場なのか、菊池には良く分からなかったが、西暦世界と同様に臨床技術よりも研究歴の方が重用されているようだった。

 シタカはミナタに荷物を持たせて菊池の監房へ来ると、菊池に歩み寄ってきた。


「気分はどうですか?」


「昨日と変わらないよ」


 菊池はぶっきらぼうに答えた。


「そうですか。そう身構えないで下さい。私は、少なくともあなたの敵ではありません。あなたの身体を気遣っている者の一人なんですから」


 菊池は答えなかった。シタカはミナタに顎で合図すると、ミナタはそそくさと菊地の診察を始めた。


「仏押さまには、格別に目をかけてもらっているようですね。一体、あなたの身体にはどんな秘密があるんですか?あなたは医術師だったのでしょう?自分の身体についてどう思っているんですか?」


「そんなことを知ってどうするんだ?」


「そんなことですって!あなた、我々回療師は自然生理学者じゃないですか?目の前に生命の神秘が存在したら、それを知りたいと思うのが普通ではありませんか?」


 菊池は何も返答しなかったが、共生者らしからぬシタカの態度に違和感を感じていた。


「いいですか、私はあなたの味方ですよ。忘れないでおいて下さい。あなたには私しかいないんですよ。ふふふ」


 シタカは薄笑いを浮かべていたが、視線は菊池には向いていなかった。まるで自分自身に語りかけているかのようだった。



 夏だというのに、そこは鍾乳洞のように冷えた湿度の高い空気が充満していた。黄持はコツコツと靴を鳴らしながら、薄暗い地下牢の廊下を歩いていた。ここは探索組が管理する常世の施設である。探索組が尋問する間、拘束する場所であるが、ここからまともに出た者はいないと言われている。部外者は立ち入ることはできない決まりだが、守衛は仏押から鼻薬を嗅がされていたので、面会に障害はなかった。面会。そう、最期の面会だ。彼ができうる最期のことだ。



 刑務所の中に少し足を踏み入れただけで、黄持は異臭に顔をしかめた。糞尿の匂いに混じり腐敗臭が蔓延している。通り過ぎるほとんどの監房に囚人がいたが、まともな人間は少なかった。手や足、目、瞼など部分欠損している者。身体中包帯が巻いてあるもの。そして全ての囚人の瞳には、尋常ならざる者の光が宿っていた。適応者もいるが、共生者も多いはずだ。共生者の精神を崩壊させる手段とは、一体どのようなものなのか。黄持は考えるのを辞めた。そんなことに思いを巡らせても意味はない。今しなければならない唯一の事は、可哀想な女性を救って上げることだ。



 彼が廊下の半ばに差し掛かった時、中から男が声をかけてきた。


「ああ、あなたは黄持さま。私です。お忘れですか?」


 黄持は立ち止まると男を見た。男には両腕と鼻と右眼、両耳介が欠損しており、口が頬まで裂けて、顔面の右半分は火傷でただれていた。額は縦に複数の傷が走り、一部は骨が見えていた。その人間とは思えない容貌に黄持はたじろいた。


「君は?」


「幕多羅でお会いしたナクラです。塩土様とお会いになった時、横に控えていた者です」


 幕多羅で会った青年の一人か?しかし、例え肉親でも彼のことは判別などできないだろう。


「ああ・・・覚えているよ。君はここに捕まっていたのか?」


「ええ。凄い拷問で死にかけましたが、なんとか生きています。幕多羅はどうなりましたか?皆は元気でしょうか?今年の村若人で都に来たササラという女の子は知りませんか?」


「ああ、皆元気だよ。君のことは皆に伝えよう」


 ナクラは涙を流しながら何度も頷いた。


「ええ、そうですよね。私も来週にはここを出して貰えます。そうしたら直ぐにササラと村に帰ります。そう、ササラと・・・。へへへへ。やはり村も私がいないと頼りない奴ばかりだし」


 すると、突然自分の腕を見て驚き始めた。


「あれ、手が、手がないなぁ。ククク」


 ナクラは笑いながらゆらゆらと監房の中に歩いていった。既に彼の中から黄持は消え去ってしまったようだった。ナクラは壁際のベッドの上に正座をして座ると、頭をゴツゴツと壁に打ち付け始めた。

 刑務所全体に、ナクラが壁に額を打ちつける音が響いていたが、同じような音は、あちこちの監房からも発せられていた。



 黄持はナクラの監房を離れると奥に向かって歩きだした。最も奥の監房に目的の面会者がいた。彼女は囚人用の灰色のワンピースを着せられてベッドに拘束されていた。右手は手首から切り落とされ、傷口は既に瘢痕化していた。彼は看守から受け取った鍵を使い監房を開けると中に入った。


「キネリ・・・」


 キネリはベッドの上からゆっくりとこちらに眼を向けた。その瞳には異形の光が宿っており、彼女の樹状痕を見ずとも5期に達しているだろうことが想像できた。


「こ、黄持さま・・・」


「大丈夫か?」


 彼は彼女の左手を握った。


「申し訳・・ありま・・・せん。私の、せいで・・・」


「気にするな。私や仏押様には何のお咎めもなかったよ」


「よかった。菊池は・・・」


「彼は蘇芳刑務所に収監されているよ。君も知っての通り、あそこなら安全だ。心配するな」


「よかった・・・」


 黄持はキネリの左手を見た。抜爪されたのか、全ての指には包帯が巻かれ、血液の染みが赤黒くついていた。


「一つだけ聞かせてくれないか?何故君は全てを投げ捨ててまで幕多羅を、いや菊池を助けようとしたんだい?」


「・・・彼に・・・お父様が・・・見えた・・・泣くことができました・・・」


「泣いたのか?悲しくて?」


 キネリはコクリと頷いた。


「気持ち・・・よかった・・・泣くって・・・素晴らしい・・・」


「わかった。そうか。泣くことができたのか・・・」


 黄持はそれ以上は何も言わなかった。暫くの沈黙の後、彼女の左手が黄持の手を握り返してきた。


「お願い・・。こ・・・殺して・・・」


 彼女の声は消えてしまいそうだった。黄持は彼女の髪を優しく撫でてあげた。


「そうか、辛いか。よし、望み通りにしてあげるよ・・・。私は君を実の娘のように思っていた。それだけは忘れないでくれ」


「・・・ありがとう・・・」


 キネリは一縷の涙を流した。

 黄持は錠剤を一錠取り出すと彼女の口に含ませた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ