表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
共生世界  作者: 舞平 旭
インターミッション1
124/179

ウェットスリープ考

「人工冬眠ですか?」


 高橋教授は大学内でも奇人で通っていたが、この場にそぐわない言葉に、菊池は思わず聞き直した。


「ああ。人工冬眠の定義は知っているかね?」


 彼の口調はまるで講義のようであった。


「いいえ」


「『1)基本的な生命活動が抑制されている。

 2)意識が失われている

 3)人為的に入眠と覚醒ができる

 4)長期間継続できる

 5)加齢を遅らせる効果がある』だよ」


「はあ」


 この男は何を言いたいのだ?


 菊池はAELウィルスに感染し、南横浜大学付属病院の個室に隔離されて既に2週間が経過していた。微熱はあったが大したことはなく、暇な時間を潰す術がなくて困っていた。そんな時の高橋の訪問であり、菊池には断る理由はなかった。高橋は生理工学の教授である。全身を防護服に覆われ、感染のリスクを犯しながら与太話はないだろう。


「私は人工冬眠、人工仮死状態と言った方が適切だが、その技術的問題点を克服したのだ」


「はあ」


 菊池は不信感を露わにしていたが、高橋はまるで意に介さす、自分の栄光に酔いしれてい流ようだった。


「一番の問題は細胞の損傷、特に脳細胞の損傷だった。低体温がヒトの代謝を落すことはしばしば報告されてきた。New England Journal of Medicineに1997に掲載された報告が有名だ。読んだかね?」


「いいえ」


 外科医が読むわけないだろう。


「そうか、不勉強だな。いいかね、論文では、山での遭難や自殺などで深部体温が28℃以下になり、心停止状態で発見された患者のうち、人工心肺装置で体温を回復された32人を調べたんだ。そのほぼ半数の15人で、なんら後遺症もなく回復していた。発見から体温を戻して心拍が再開するまで、30分から最長4時間もかかっているのにだ。現代医療では驚きの心停止時間だ。低体温は、人工仮死状態にする手段として確かに有効で、SF小説で採用される方法も殆どがこの方法だ。脳障害に対しては古くから臨床に使われているので、知ってはいるだろう?」


「はい。私も行なっていました。ただ、体温を30度以下に下げることはありません」


「そうだ。余り下げると心臓が止まるからな。だが28度以下に下げても、やっと数時間の心停止がいいとこだ。これでは人工仮死状態には使えない。動物実験では更に体温を下げることに成功している。ピッツバーグ大のセイファーは緊急臓器保存蘇生法(Emergency Preservation and Resuscitation:EPR)を開発して有名になった。彼らは2℃の冷却生理食塩水を急速注入して、犬の深部体温を10℃まで低下させ、酸素消費量を正常時の10%まで減少させることに成功した。心停止時間は3時間で、シャム手術(偽手術)を行なった後、人工心肺で36時間かけて37度まで体温を上げたが脳損傷は認められなかった。こちらは間も無く臨床応用されるだろう。だが10度でもまだ高い。もっと体温を下げなければ人工仮死状態にはいたらない」


「ところで、一体何を話したいんで・・・」


「まあ、待ちなさい。せっかちだな」


 高橋は早口で後を続けた。


「極端な低体温は、1962年からアメリカで行われている死体凍結保存(クライオニクス、cryonics)で既にビジネス化されている。遺体を-197℃に凍結して保存するのだが、超低温では細胞の周囲の体液が凍って氷ができる。これが組織損傷を起こすため、彼らは血液を抜き取ってグリセロールなど凍結保護剤を注入し、超低温でも細胞周囲の氷の形成を防いで細胞損傷を最小限度におさえている。しかしやはり微小な損傷は起こる。特に脳組織の損傷は微小でも致命的だ。ただ下げてもだめなのだ!」


 興奮した高橋教授は、興奮を抑えるように話を切ると、バイザー越しに菊池を見つめ直した。


「つまり、低体温保存はいいが、長期間の保存には少なくとも氷点下までは体温を落す必要がある。しかし致命的な細胞損傷を引き起こす可能性が高い、ということですね?」


 菊池は面白くなってきた。この人はある意味では狂っている。研究をしていると、こういう人物によく遭遇する。


「そうだ。流石に優秀だな。そこで私は細胞保護のために有効な三糖類を発見した」


「三糖類?」


「ああ。クマノミやユスリカは知っているな?」


「ええ。乾燥や寒冷とか、途轍もない環境でも生存するってやつでしょう?」


「それはクリプトバイオシス(Cryptobiosis: 秘められた生命)と言われる。ネムリユスリカやクマムシなどは、乾燥など厳しい環境下に置かれると、生命活動を停止して生き残る。彼らは二糖類のトレハロースを体内に増やしてDNA損傷を回避しているが、人には使えなかった。そこで私は三糖類のメレジトースの異性体を利用した。この異性体はヒトの細胞膜の構成成分であるセルロースと相性が良く、体内に入ると速やかに細胞内外に分布する。三糖類の浸透により、身体の水分を5%まで下げることが可能になった(注: 成人の水分量は60~65%と言われる)。その結果、細胞の氷点を約15度下げることに成功したんだ。これで氷点下でも凍ることがなく、細胞障害も起こりにくい」


「起こりにくい?」


「まあ、少しは起こる・・・。だが、そんなものは問題にならない!」


 高橋の防護服のバイザーが唾で汚れたが、彼は気にする風でもなかった。


「いいかね、-10度での代謝率は実に100分の1だよ、100分の1。もっと下げる事も可能だ。更にこの異性体の素晴しい点は、皮膚から容易に吸収されることだ。そこで被験者は、冷たい糖やグリセロールなどが混合されたプールに浮きながら眠ることになる。比重が高いからまさに浮いているんだ。『コールドスリープ』ではあるが、私は『ウェットスリープ』と呼んでいる」


「ウェットスリープ・・・。私にその被験者になるようにリクルートに来られたわけですね?」


「ああ。君は残念だが助からん」


「はっきり言いますね」


「嘘をついても仕方が無い。しかし数年後には治療法が開発されている可能性は高い。それに、君のような医療関係者の被験者は是非欲しい」


 まあ、そんな所だろう。こんな与太話、まともに受け入れられるはずは無い。医療関係者に白羽の矢を立てるのは余程の場合だ。多くに断られてここを尋ねてきたのに違いない。


「所で目標は何年ですか?」


 菊池は冷静に質問している自分に少し驚いてはいた。


「今回は1年。だが、状況によって更に長期を目指す。理論的には100年はいけると考えている」


「100年ですか?」


「ああ、多分ね。この理論の開発期間はわずか1年なんだよ。わからないことも多い」


 高橋はバイザーをこすった。


「それを臨床試験するのですか?よく倫理委が通りましたね」


「君も察している通り、当然通ってなどいない。今回の臨床試験の目的はAELウィルスの対策なんだ。じゃなければ許されるはずがないし、100億規模の予算がでる訳が無い。超法規的措置って奴だ。ヘルシンキ宣言はなしだ。ただ、理論は完璧だ。1年目に君たちを覚醒させ、身体の状態を確認する。もしAELの治療法が見つかっていなければ更に3年延長する。君も治療法もなく、冬眠から起きても数カ月で死亡したんじゃ意味がないだろ?」


 なぜこの男はこんな理論的な話を自分にするのだろう?被験者に話す内容を超えている。


 しかし菊池があからさまに疑問視する姿を顧みることもなく、高橋は話し続けた。


「次の問題は、低体温では血液凝固能や免疫能が低下するため、出血や感染リスクが上がることと、廃用性筋萎縮、骨粗鬆症などの予防だ。これはAELウィルスがやってくれる。こいつらはウィルスらしく利己主義な奴らで、自分達は宿主を殺すくせに、他の奴らからは宿主を守る力がある。外から補給がなければ、宿主に可能な限りの再利用を行わせるし、免疫システムは乗っ取られたも同様になっている。これを利用しない手はない。少なくとも細菌以下のレベルの感染症には、AELウィルス感染者の方が、我々よりもむしろ強いんだよ。その証拠に、あれだけ好酸球が腫瘍性増殖し、それにより好中球が減少した患者でも、感染症で死亡する症例はいないだろ?」


「いいえ、いますよ。確かに少ないですが」


「いやいや、ゼロだよ、ゼロ。感染症で亡くなった患者は全て化学療法を行った患者だよ。それ以外の患者はほとんどが心不全なり呼吸不全で死亡するんだ」


 確かにそうかもしれない。菊池の受け持ち患者も、ほとんどが心不全で死亡していた。


「だから、このウェットスリープは感染者しか耐えられないシステムなんだ。私のような非感染者では、長期間はまだ耐え切れないんだよ。多分3ヶ月がいいとこだろう。だが必ず誰でも使えるように改良する」


 防護服越しの高橋の眼には一種の狂気が潜んでいた。面白い。今、菊池に必要なのは狂気に支配されることかもしれない。しかし高橋の話は止め処も無い。気をつけないと置いていかれてしまう。


「人工仮死状態への導入は、硫化水素供与体の血管内投与でおこなう。知っての通り、一酸化窒素(NO)と同様、硫化水素などガス性シグナルは血管拡張作用など人体にとって重要な物質だ。硫化水素の投与で哺乳類が冬眠に似た状態になることは知ってるだろ?知らないのかね?研究では、フレッド・ハッチンソンがん研究所のロスらが2005年に『Sience』に載せた短報が有名だ。マウスに80ppmの硫化水素ガスを吸入させると、代謝率は5分以内に50%まで低下し、体温は室温+2℃まで下がり、酸素消費量も10%まで低下する。硫化水素ガスの吸入をやめると、1時間で正常にもどる。硫化水素により、suspended animation-like state(人工仮死状態)を作ることができるということだ。ただし、大型動物ではだめだ」


「なぜです?」


「高濃度を投与をするには、硫化水素は刺激が強すぎるからだ」


 確かに、と菊池は理解した。硫化水素は日本人にとって身近な毒ガスである。温泉場の硫黄臭と言えば分かりやすいだろう。オナラにもわずかに含まれている。高濃度で吸える訳が無い。


「そこで供与体を注入するわけだ。個人差が大きく濃度が重要だが、モニターは簡単にできる」


「それでは、被験者へのエネルギー補給はどうするのですか?」


「その前に、まず問題は電源だが、既に研究所にある地熱発電と太陽光発電の効率が格段に上がっているので、半永久的に大丈夫だと言っていた。バックアップも完璧だし、当然専用に増築しているがね。そして栄養補給と再利用は、このスーツを使う」


 というと、高橋はMTで一枚の写真を見せてくれた。写真には黒いウェットスーツのようなものが写っていた。無数の管が頭部や腰についている。


「これは?」


「ハイバネーション・スーツだ。被検者とシステムとをリンクし、モニターリング、三糖類の調整、薬剤投与、排泄物の再利用などを担ってくれる。まあ、モニタリング機器の接続のために、首にちょっとした手術を行ってもらうが、たいしたものじゃない」


 高橋はスーツの写真を、まるで娘を見るように愛おしそうに眺めていた。


「再利用で特に問題なのは尿素とカルシウムだ。クマは冬眠時には膀胱から尿素をほぼ100%再吸収する。そのため、クマは冬眠中には殆ど排尿しない。人間も腸管で20%ほど行うが、大部分は垂れ流しだ。カルシウムも尿から排泄されてしまうため、長期間何も食べなければ、筋肉も骨もスカスカになってしまう。AELウィルスの再利用も有効だが、何年もは無理だ。そこでこのスーツから再利用をする。また必要な栄養素も補給してくれる。三糖類も栄養とはなるが、それだけでは栄養障害になるからな。栄養素は藍藻類を使う。二酸化炭素と光によりほぼ無限に増殖し栄養価も高い。美味いぞ。今度飲ませてあげよう。ミルクと混ぜると抹茶シェークみたいだ」


 高橋は親指を立てて合図をしたが、意味がわからない。


「そして、もし今回の研究が成功すれば、被検者は1年に1時間だけ覚醒するリズムを保ちながら長期間眠り続ける。まるで眠りの森の美女のように、誰かが起こしてくれるのをひたすら待つのだ」


「先生もロマンチストですね。何故覚醒が必要なんですか?」


「冬眠中のリスなどは覚醒時と比べ、体温は1/4~1/20、心拍数は1/60、呼吸数は1/25、代謝率は1/25~1/50に落ちる。これを鈍麻状態という。しかし、冬眠中ずっと鈍麻状態ではなく、1~2週間の鈍麻状態と20時間以下の覚醒のサイクルを5~8ヶ月繰り返している。これは、低体温で脳の活動も低下しているため、脳循環が障害され、記憶の整理や脳の修復など睡眠中に起こる大切な作業が行われないためだ。つまり、睡眠不足なんだよ」


「冬眠してるのに睡眠不足ですか?」


「冬眠は睡眠ではない。特に人工仮死状態ではね。薬剤による悩細胞外液の循環不全を解消することにより、必須睡眠時間はかなり圧縮はできてきたが、まだ1年に1時間程度の覚醒が必要なのだ。そこで、およそ36時間かけてゆっくりと水分量と体温を戻し、1時間の覚醒後、硫化水素により再び低体温にもっていく。その1時間、コンピュータからネットの1年間の情報を整理して音声で被検者に伝える。被検者は夢うつつだが、内容は凡そ理解できて記憶するだろう。睡眠学習だな。Multifunctional artificial suspended animation maintenance intelligence、略してMASAMIと読んでいるが、彼女コンピュータが話相手になってくれる」


「コンピュータと話・・・そんなもの必要なんですか?」


「いらないよ。でも、起きた時、まるっきり世間知らずも可哀想かと思ってね」


 高橋教授はウィンクした。


「この試験は人道に反することはわかっているつもりだし、君に強制するつもりもない」


「n数は何名ですか?」


「今は君を入れて3名を考えている。君たちに問題がなければ、あと3名を半年後に追加する。時間がないのでね。場所は東京感染症研究所だ」


 菊池は被検者に志願した。この世はAELウィルスという死に支配されており、高橋の研究は狂気に支配されている。どうせ支配されるならば、狂気の方がましだと菊池は考えたのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ