母の戦い
メキソは茹だるような熱気で眼を覚ました。
「どこだ?ここは?」
彼は自分の身体に触れてみた。左肩がズキズキと痛んだ。かなり出血していた。全身に大小の火傷が散在し、周囲の熱気がかかるとヒリヒリ痛んだ。彼の手からはいつの間にか、ルキソの首が無くなっていた。彼は肩を押さえながら立ち上がると、周囲を見渡した。正常な感覚の持ち主にとっては、正に地獄絵だった。地獄変で絵仏師、良秀が描いた地獄絵のように、日輪が地に落ちて、天火が迸ったような炎が辺りを満たしていた。木々が音をたてて弾け、崩れ落ちていった。炎を身に纏った人形の様な影が、いくつも地に蠢いていた。真っ黒に炭化したもの。焼けて収縮した皮膚が剥がれ、赤黒い筋肉がヌメヌメと光っているもの。嘔吐を催すような光景が続いていたが、メキソは無感情に、ただ弟の首を探し求めた。
菊池は炎の森の中を当てもなく徘徊していた。
「キネリ!キネリ!」
眼の前には炎にのたうちまわる兵士がいた。全身は炎に包まれ、地面に身体をこすりつけて炎を消そうともがいていたが、油を浴びた身体に引火した火が、そう簡単に消える訳もない。菊池は男を避けながら奥に進むと、彼の胸に、何やら細い、そして柔らかい生糸のようなイメージが湧いてきた。糸はこの先から発せられていた。彼は火に包まれた倒木を、火傷も気にせずにまたぎ超えると、そこには火の付いた兵士の下敷きになっているキネリがいた。周りの木々は炎華を咲かせ、木々の爆ぜる音が不規則に高鳴っていた。
「キネリ!」
菊池は駆け寄ると、兵士をどかし、彼女の身体を揺すった。彼女は薄っすらと瞳を開けた。
「き、菊池・・・」
「キネリ!良かった。いま連れ出してやるからな!」
彼は意識を失ったキネリを抱きかかえると、元来た道を北側に向かった。南や東は炎が行く手を阻んで通過できそうもなかったからだ。先ほどの火達磨になっていた男は、既に動かなくなっており、皮膚はただれて黒化していた。周囲には煙に混ざり、肉の焦げる甘ったるく、吐き気を催す臭いが漂っていた。
林を出た二人は、そのまま北に進み、議事堂前の広場にたどり着いた。眼前の議事堂は既に炎に包まれていた。ゴウゴウという炎の音に混じり、パキパキという木の爆ぜる音や、小さな爆発音が辺りを満たしていた。もう炎は村の全てを喰らうまで、攻撃の手を緩めることはないだろう。ここもじきに火が回ってくる。しかし噴水はまだ生きており、この火炎地獄に唯一の清涼を醸し出していた。菊池は手拭いを水に浸すと、彼女の頬の煤を拭い取った。彼女がゆっくりと目を開けた。
「・・・ここは?」
「議事堂だ。君のお陰で敵をやっつけられた。ありがとう。沢山の村人が逃げられたと思う」
「そう・・・。貴方はなんで逃げなかったの?」
「そりゃ、君を放っておけないから・・・」
菊池は照れながら頭をかいた。
「馬鹿なヒト・・・」
キネリは菊池に抱きついた。彼も彼女を抱いた。強い燃焼臭が立ちこめていたが、キネリの身体から匂い立つ女の香りは、菊池に十分届いてきていた。
「あった」
トヨキは目当ての物を両手を強く握りしめ、必死で身体の震えを止めようとした。レイヨを、娘を守るために。
「奥さーん、いつまで隠れてるんですかー。まあ、私の仕事は殆ど終わってますから、いいですけど。でも完璧じゃないと嫌なんです。そこに隠れてるんでしょ?もう着きますよ」
彼は剣をコツコツと鳴らし続けた。箱の迷路の角を回ると、そこにはトヨキが両手に包丁を構えて立っていた。刃先は小刻みに震えていた。
「いたー。奥さん、危ないなあ。なに包丁なんて構えてるんですか?震えているじゃないですか。嫌だなあ。すぐに済みますから、落ち着きましょうよ」
そして、自分の剣を見た。
「あ、これですか?済みません、無作法で。今から捨てますから、自暴自棄にならないで下さいね」
そう言うと、彼は剣をゆっくり捨てた。彼女が剣に注意を逸らした瞬間、ニミツは素早く彼女の手首を掴むと、軽く捻って包丁を落とさせた。
「きゃあ!」
「さて、それじゃ楽にしてあげますよ」
彼は彼女の腕を捻じったまま、彼女の首を片手で掴んで力を入れた。彼女は必死で彼の腕を引き離そうともがいた。
「ぐぅ、ぐ、ぐ」
彼女の口から苦痛が漏れた。頸動脈が圧迫され、トヨキの意識が遠のき始めた。
その時、菊池の耳に微かな赤ん坊の泣き声が聞こえた。
「赤ん坊?・・・あっちだ!」
菊池達は広場から市場に向かって、声のする方へ走って行った。すると、そこには女性が倒れており、その胸には赤ん坊が抱えられていた。
「レイヨ!」
菊池は駆け寄るとレイヨを抱き起こした。
「レイヨ、大丈夫か?」
「タカヨシ・・・。私は・・・お、OKキツネだよ。あ、赤ちゃんは?」
「大丈夫。元気に泣いている。何で君がこんな所に?」
レイヨは菊池に抱きつくと号泣し、これまでの経緯を短く話し始めた。
「そうか。ワツミさんは亡くなったのか・・」
「うん。赤ちゃんを助けようとして・・・。最期に貴方の所に行けと言って・・・」
その時、キネリが割って入った。
「菊池、早く逃げた方がいい。東が封鎖されたら逃げ道はない」
「ああ。レイヨ、行こう!」
彼らは北東から回り込むように東に向かった。炎で主要な道は塞がれていたが、レイヨの案内で迂回路を探し、何とか御宮の裏に抜けることができた。三人はそこから川へ向かう道に入り、一心に川を目指した。後ろを振り向く者は誰もいなかった。まるで神の言いつけを守るロトのように。
「どうですか?苦しいですか?でももうすぐ楽になりますよ。もう少しです」
ニミツは穏やかな表情を崩すことなく、淡々とトヨキの首を絞めていた。まるで狩人が獲物を葬るように。トヨキは懸命にポケットに手を入れ、目的の物を掴んだ。そして、その物の蓋を開けると、中身を彼の顔面にブチまけた。真っ赤な液体が彼の眼に降りかかった。
「ぐあー!ひー!め、眼が!」
彼は彼女の首から手を離すと、自分の両眼を抑え、のたうち回り始めた。彼女が撒いたものは『タバスコ』のようなものである。『タバスコ』はキダチトウガラシをすり潰したものが主原料のホットソースである。催涙スプレーの原料でもあり、眼に入ると激痛で行動不能となる。トヨキはむせこみながら、自分の首を摩った。そして急いでニミツから離れると、『次の場所』に移動した。
「畜生!このアマ!殺してやる!」
男は涙をボロボロとこぼしながら、手探りで傍の剣を拾い、立ち上がった。
「どこだ!ぶっ殺してやる!」
男は辺り構わず剣を振り回したが、狭い空間のため、剣は壁の箱に当たり、上手く振り回すことはできていなかった。彼女は予想外に早くニミツが立ち上がって攻撃してきたことにたじろぎ、後ろに下がると、壁の間に手を差し込んだ。そこには包丁がもう一本隠してあった。男は涙を溢れさせ、充血した眼を辛うじて開き、薄っすらと彼女の姿を捉えていた。
「そこか!」
男は剣を振るうが、見当違いの場所に傷をつけるだけだった。
「ああ、あなた、レイヨ、私を守って」
彼女は震える両手で包丁を腰の位置に握ると、そのまま男に体当りをした。
「うぐっ」
男の腹に包丁が深々と突き刺さった。刃は腸を分断し、腹部大動脈に大きな傷をつけた。
「きさま!」
ニミツは震える声でトヨキの肩をもたれかかるように掴んだ。
「娘には、レイヨには触れさせない!」
彼女はそのまま包丁を抜くと、何度も何度もニミツの腹に突き刺した。
「ぐああ!ぐぶ!」
男は全身がプルプルと震えだした。腹部の動脈が複数箇所おきで損傷を受けた。大量の腹腔内出血のため血圧が急速に低下し、両足の力が急速に抜けて行くのがニミツにはわかった。
「ぐああ!」
ニミツは力を振り絞って女の顔面を殴りつけた。トヨキはそのまま後ろに倒れた。ニミツは腹に包丁を刺したまま仁王立ちになると、攻性変換を行った。
「女!俺は認めんぞ!お前みたいな適応者の女が!」
ニミツは激怒し、我を失っていた。サディストであり、完璧主義者の彼は、愚かな適応者の中年女に、渦動師である自分が傷つけられたことが許せなかったのである。渦動師である彼が、この程度の外傷で死ぬことはない。しかし重度の損傷を受けている以上、回術も行わず、渦動波のようなおびただしいアエルを消費する技を使用することなど、自殺行為である。この時の彼は、自分に恥をかかせた女をこの世から跡形もなく消し去りたい、という衝動のみに突き動かされていたのだった。共生者らしからぬ非論理的な行動で、平時のニミツが最も嫌う思考だったのだが。
腹部からはおびただしい量の血液が滲み出ていた。右手のひらに渦動口が開き、彼の身体は光に満ちていった。ニミツはあらん限りのエネルギーを渦動波に蓄えていった。
「ああ・・・」
彼女は男の発する光が自分を覆っていくのを感じた。
あなた・・・レイヨ・・・。
彼女の脳裏には、楽しかった家族の団欒風景が浮かんできた。みんなで食卓を囲んでいる。レイヨが食べながら話しているのを、ワツミが注意していた。ぺろっと舌を出すレイヨ・・・。
光の中のトヨキは、涙を流しながら微笑んでいた。
その後、房軍の兵士が腹を押さえて失血死しているニミツを発見した。剖検をした回術師は、なぜこの程度の傷でニミツが死んだのかわからず、女が仕込んでいた毒のせいだと結論づけた。ニミツは毒、それも対渦動師専用の毒に犯されながらも、懸命にテロリストと戦ってこれを仕留めた英雄であると。そしてその脇には、体のほとんどを渦動波で粒子化され、頭頂部の一部とわずかな四肢断片だけになった身元不明の女の遺体があった。